【読書感想文】私たちは学習している

 

 

虹を解体することにより、私達は夜空に輝く星の光を分析しそれぞれの星の経てきた時間や地球からの距離を知ることができるようになった。そうした知見は、新たな創造の源になりはしないだろうか。科学は詩を解体するものではない。むしろ新しい詩を創り出すものである。

-リチャード・ドーキンス 「虹の解体」

 

連合学習でも行動分析学でも、どっちでもいいんだけど、とにかく不人気の分野である。例えば2020年度の日本心理学会のポスターの件数は総数で大体900件程度だが、「行動」「学習」セクションが占める割合はわずか1%程度に過ぎない。

 

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なぜ、不人気なのか?澤さんの教科書でも最初の1p目に「理屈っぽい」「難しい」と学生から不評であると述べられている。それもそうなのかもしれないが、学生が思う「理屈っぽい」の背景には、なんとなく人間の持つ豊かさみたいなものが解体されてしまうような、不安とそれに伴う不愉快さがあるのだろう。B.F. Skinnerの "About Behaviorism" では、最初に行動主義へのよくある誤解が20個挙げられている。その中には「行動は単に刺激への反応であり、人間は自動機械である」「行動の予測と制御だけしか扱えず、人間の本質を逃してしまっている」「進展しているように見えるが、言ってることはただの常識に過ぎない」「人生の豊穣さについて無関心で、創造性や愉快さとは相性が悪い」なんて事柄が含まれている。ひでえ言われようである。50年近くたっても、状況はあまり変わっていなさそうだ。もちろん、そうではないと確信しているから、ぼくらは学習研究が好きなのだが。

 

前口上が長くなった。学習心理学の教科書に新刊がでて、俺の観測のTwitterでは大変話題になっている (2021/12/10発売)。著者は澤幸祐先生で、Amazonでは発売直後売り切れるほどだった。なお、俺は結構前から予約してたのに発送が遅れるとか連絡が来て憤死しそうだったのだが、出版社ウェブサイトから直接購入ができて、ことなきを得た。というわけでこの週末に読んでみたので、簡単に感想とか思い出話とかでも書いてみよう。書誌情報は以下の通り、9億部売りたいらしいので、ぜひ、みんな買おう。

 

chitosepress.com

 

本書は、学習心理学の本なので、古典的条件づけと道具的条件づけに紙面の大半が割かれて解説されている。副題に「統一的理解に向けて」とある。読んでみればわかるが、ここでいう「統一的」というのは、両学習様式を一元的に理解するような新たな枠組みを提示するという意図ではない。本書では、連合構造の更新則と連合の構造という2側面から両学習を理解する。そのような枠組みで条件づけの諸研究が体系づけている。「まえがき」にもあるように、議論の分かれる最新の研究というよりは、知見が蓄積されている研究や理論に重きを置いてある。学習の研究は、それらの土台がないと最新の研究も理解できないし、そもそも面白さがわからない。

 

最初は心理学史から始まる。記述の多くはボークスの『動物心理学史*1に依っていると思うが、学習という切り口から再構成されている。ワトソンの行動主義、それが生まれる時代的土壌と続き、Skinnerの徹底的行動主義と、それに対置される方法論的行動主義の誕生という流れが紹介されている。そして、徹底的行動主義に立脚する行動分析学と、方法論的行動主義の流れに属する学習心理学という塩梅である。

 

澤さんは常々「哲学がなくても心理学はできるが、哲学抜きで心理学をやるのも味気ない」と言っている。行動分析学学習心理学は、ある程度そばにいて見たらだいぶ毛色が違うものなのだが、外から見ていると同じ学問の別称くらいにしか感じないだろう。この辺りの相違を押さえているあたりが、澤さんらしい。余談なんだが、ぼくは澤さんと初めて会ったのが、学部2年生のときの講義であった。講義名は「行動分析学特殊」だったと思うが、もちろん澤さんが教えるのは行動分析学ではなく、学習心理学である。慶應の文学部は2年生から専攻に分かれるため、心理学を学び始めて1年目の頃である。そういうわけで全く同時期に必修科目に坂上貴之先生の「行動分析学」も履修していた。当時から、言葉にできないものの「流儀の違い」のようなものは感じていた。今考えたら、すげえ教育を受けていたんだな、なんて思う。

 

続く2つの章では、古典的条件づけと道具的条件づけの基本的な知見が紹介される。それぞれ「世界を知ること」「世界と関わること」という題がついているが、これがどういうことかというと、古典的条件づけは「複数の刺激を対提示することによって生じる学習 (p78)」であり、すなわち「刺激と刺激の関係性についての学習」である。故に「世界を知ること」というわけだ。一方で、道具的条件づけは、後続事象により行動が変化するような学習様式である。古典的条件づけでは「生活体が反応することは求められていない (p76)」し、例えば電気ショック (US) を受けてどのような反応を示そうが、電気ショックの強度や頻度が変わることはない。対照的に道具的条件づけは、行動と後続事象との間の随伴性に依存する学習というわけだ。

 

また、古典的/道具的条件づけという区別の他にレスポンデント/オペラント条件づけという区別の仕方もあり、行動分析学で用いられる。この用語法の違いについて、述べられている教科書はほとんどないと思うのだが、澤さんはこの点を、複数の刺激が提示されたことによる刺激と刺激の関係性の学習を古典的条件づけと定義した以上、レスポンデント条件づけの定義に関わる刺激の「誘発性」は古典的条件づけの要件足りえない。また、学習心理学のスキームで議論するなら、連合構造についての議論の中で道具的行動が複数の連合構造を持っていて、その構造を分析するという方向に自然と向かうが、行動分析学のオペラント条件づけではそういう議論が (定義的には) 成立しない。一方で、徹底して環境と行動の間の機能的関係に関する分析と、制御変数の同定に注力することで見えてくる世界もある。また、澤さんは雑談していると、たまに「とはいえ、操作で定義した方が概念の息は長いはず」とも言う。「何が学習されているのか」まで考慮に入れると、時代とともに概念が変わりうる。しかし、行動分析学のように意味論的なプラグマティズムの適用を徹底しておけば、その辺りの不安は比較的低い。本書では「2つ以上の刺激が提示されて生じる学習」という古典的条件づけの定義は、操作に基づいているものの、そこで学習される内容も暗に含まれる定義になっている。実際、それ以降は用語の使用上は単なる操作を超えて学習内容という意味で用語を運用している。この辺りは、悩んだ上で書いていそうだな、と推察される。

 

ともあれ、どっちの用語を使ってもいいのだが、決めた方で統一して話を進めるのが望ましいというわけだ。この一節は、ある意味最後の章よりも澤さんらしさが出ているところだと思う。関係ないが、メイザーの『学習と行動』が古典的/オペラントとごちゃ混ぜな用語なせいで、この教科書で勉強した人は一貫した呼び方をしないことが多い。かくいうぼくも、学部の教科書がメイザーだっためそうだったんだが、留学先のルール大学が古典的 (あるいはPavlovian)/道具的だったため、最近はそう呼ぶことが習慣になってきた。ただ、行動分析学の話をするときはレスポンデント/オペラントと言うようにしている。なんでメイザーって、言葉混ぜてるんだろう?

 

古典的条件づけ、道具的条件づけの基本を押さえた後には、古典的条件づけと道具的条件づけの理論が話題となる。古典的条件づけの理論では、大きくは随伴生理論、レスコーラ・ワグナーモデル、マッキントシュの注意理論、ピアース・ホールモデルが、モデルと関係深い現象とともに紹介される。例えば、レスコーラ・ワグナーモデルと阻止現象、マッキントシュのモデルと潜在制止、ピアース・ホールモデルと負の転移現象といった具合である。これらのモデルでは、いずれも連合の更新則をモデル化しているのであり、条件刺激と無条件刺激が連合することを暗に仮定している (p162)。射程となる現象を説明する上では、特に問題がないわけだが、2次条件づけに代表されるように、連合構造 (何と何が結びついているのか?) が問題になる現象は多い。さらに、道具的条件づけ (三項随伴性) を連合構造という観点から捉えると、先行刺激ー結果事象 (S-O) と反応ー結果事象 (R-O) がまず重要な因子になる。本書ではそれらの連合構造についての知見を紹介した上で、S-O連合が古典的条件づけで学習される刺激間の関係性の学習と等価なのか*2、Dickinsonらの研究に代表される習慣行動 (SーR連合)、Pavlovian-instrumental transferといった古典的条件づけと道具的条件づけの相互作用といった発展的な話題が続く。例えば習慣行動なんかは、大脳基底核神経科学研究も盛んに行われていて、これがまた面白いので、大変広がりがある。習慣行動の研究は、ぼくも澤さんと共同研究で少し携わらせてもらっていて、勉強中である。

 

繰り返しになるが、本書は連合の更新の規則と連合の構造というところから学習心理学をまとめている。そのため、体系としての美しさが際立つ一方、通常の道具的条件づけの解説 (あるいは行動分析学のオペラント条件づけの章) で必ず取り扱われるである話題がなかったりする。例えば、対応法則 (matching law) は行動分析学の最重要現象だが、これは行動の「配分」という問題設定なので、本書の枠とはいまいち合わない。このように、行動分析学学習心理学の体系では、扱いやすいもの、思いつきやすい実験、あるいは解釈のしやすさなんかが変わってくる。その点ばかりは、まだ誰も行動科学を「統一」していないので、仕方ない。いわば方法論的行動主義と徹底的行動主義の違いを反映している部分でもあるんだが、澤さんは本書でこう言っている。

 

「主義」にとらわれるのではなく、目的に応じて、適切な方法を採用し、その方法の中で要求される作法を満たすことが重要である (p33)

 

日和見的行動主義者としては、全くもって、その通りだと思う。

 

ちなみに、本書の帯の「これはとても美しいことだと思う」という殺し文句は、古典的条件づけと道具的条件づけの2つの随伴性空間の関係を説明しているところで出てくる。ぼくも随伴性空間は知っていたが、見落としていた美しさであった。何がどう美しいかは、読んでみるべし。ページ数は191ページである。

 

第6章では、それまでの章では扱ってこなかったような学習周りの現象として知覚学習、空間学習、時間に関する学習、因果推論といった話題が並ぶ。因果推論は、澤さんの専門でもあって、ぼくが学部2年生のときに聞いて衝撃を受けた研究でもある。第7章は臨床的応用と銘を打っているが、実質的には臨床と関連が深いと言われている消去に関する諸研究を話題にしている。これは誠実な態度だと思う。事実澤さんは臨床家ではないし、実際に心理的な困難さを抱えている人に「あなたは何もできない (p234)」と釘を刺し、その上で、基礎的な研究を知ることで、少なくとも不適切な振る舞いを避けることができるかもしれないと述べるところから始めている。そういうわけで、臨床研究や臨床実践の話ではなく、恐怖条件づけの消去や復元効果いった、現実世界でもしばしば問題になる現象の実験的研究についての解説に大半が割かれている。

 

最後の章は澤さんの学習研究への思いの丈を綴ってる。学習研究が動物行動の抽象化によって成り立っていて、学習心理学の外でも深層学習をはじめとした学習のアルゴリズムの開発が進んでいる。澤さんはこれらを「漂白された心」と呼んでいるが、一方で、生の動物が見せる現実世界での学習の泥臭さというのもある。例えば、本書で挙げられているのは、アリジゴクに古典的条件づけを施すと、成虫になるのが早くなるという現象である。世界に関する統計的規則性が、目下注目している行動を超えて、身体全体を巻き込んだ変容を引き起こしているというわけだ。心理学の扱う「心」というのは環境と隔絶された、内と外の内側であるとぼくたちは思いがちだが、身体を持って実世界と相互作用し続ける動物はそんな明確な境界を持っていないのかもしれない。

 

というところまで書いて、William Jamesが「心理学者の誤謬」と呼んだものを思い出した。

“・・・思考の認知機能には、自己の熟慮的意識が不可欠だと多くの哲学者が考えている。たったひとつの物事を知るためにも、その物事と自身の自己をはっきりと区別しなくてはいけないと考えているのだ。まったくもってめちゃくちゃな想定であり、確からしいと考えるために存在する理由の影すら、おぼろげにも見られない。知っていることを知らずして知ることはできないと考えることは、夢を見る夢を見ずして夢を見られない、誓うことを誓わずして誓えない、否定することを否定せずして否定できないと言い募ることと同じだと言えよう。・・・これは「心理学者の誤謬」の一例である。対象と思考とが別物だと知っているのは彼らなのだ。そして彼らは安直にも、自らの知識を思考の知識に押し付けて、思考を正しく説明しているとうそぶくのだ。つまり結論としては、知ることにおいて、思考は対象と自身を区別するかもしれないが、その必要はないのである”

 

区別しているのは、観察者側であって、身体を持って行為する動物は、その行為でもって既に環境から区別されている。ぼくは博士の頃、カラスやハトのクチバシを擬似クチバシで伸ばすという、一見すると珍妙な実験をやっていたのだが、徐々にクチバシの動きの巧みさが増していく様子を見るのは、動物の学習の威力を見せつけられているようで、今でもぼくの原点のような研究である*3。そんなことを言い始めると当然、身体性認知との接点がどこにあるのかが問題になる。例えば、比較認知科学ではクモの認知は蜘蛛の巣まで含めて考えるべきなんじゃないの?といった議論がある (Ken Chengのレビュー)。とはいえ、連合学習との間のnew synthesisのようなものはまだまだ見られないし、これはぼくら若い人への宿題だろう。

 

最後はだいぶ投げやりになってしまったが、この辺で読書感想文を終える。最初に、ドーキンスの『虹の解体』から一節を引いた。それに応えるような言葉を、リチャード・ファインマンが言っているらしい。それを引いて締めることにしよう。

 

あなたに見えている美しさは私にも見えている。しかし他の人にとっては容易に得られないより深い美しさを、さらに私は見ているのである

- リチャード・ファインマン

 

比較認知科学では連合学習というのは、killjoy仮説としてとりあえずやっつけるべき相手として出されることも多い。まあそういう場合もあるのかもしれないが、本質はそうじゃあないんだ、とこの本を読んだ後には言えるようになることだろう。澤さん自身は「・・・これはあくまで可能性であり、世界観の提示にすぎない」(p166) と言っている。連合学習理論は、1つの世界観なのだ。

 

 

*1:これもすげえ本だと思う。おすすめ。なお、絶版。

*2:これがどうにも一筋縄ではいかないらしい

*3:これはいわば運動学習の研究だが、動物の学習を見るのは、研究者にとって大変強化的なんですな・・・。