持ってるレンズで家の照明撮っただけの報告

家で寝っ転がりながら手持ちのレンズで50-55mmのもので、天井を写してみた。

すべてRAWを特に編集せずJEPGに出したものだが、はてなブログは10MBまでしか受け付けないので、画質は適当に落としてある。カメラはNikonのZ7iiで、ISOはオートにしておいた。

 

まずは全体比較。下に各写真も載せておいた。

 

一番右のタムロンだけ新しいレンズで、ここでの比較ではおまけみたいなもの。他はヤフオクなどでコツコツ落としてきたオールドレンズになる。Zの純正で標準域のものは持っていない。金がほしいよ。

 

パッとみてるだけでもMinolta RokkorとKonica Hexanonが同系統で、比較的改造して写るのに対して、Canon FDとSuper-Takumarはふわっと光が広がる味付けになっているのがわかる。

この画像じゃわかりにくいが、手元で拡大してみるとRokkorの方がHexanonよりパキッとしている。ただ、Hexanonのピントが甘いだけかも。それを差し引いても、Rokkorが綺麗に写るなあといった印象。1,300円で落としたんだけどね。オールドレンズ定番、Super-Takumarは一番ふんわりしていて、これはいろんなレビューでも見る通りだね。Canon FDはもうちょっとバランスの良い写りをしている。こういう状況だと、FDが一番好きかな、俺は。

 

ROKKOR-PF 55mm f1.7

 

 

Canon FD 50mm F1.4 S.S.C

 

 

KONICA HEXANON AR 50mm F1.7

 

 

Super-Takumar 50mm F1.4

 

 

おまけ:Tamron 35-150mm F/2-2.8 Di III VXD 

 

今回の比較だと俺はFDが好きだな。でも、また気が向いたら別の状況でも比較してみたい。

 

人間中心主義は味のしなくなったガムじゃなかった

人間中心主義(anthropocentrism)ってのは比較認知ではよく聞くと思うが、人間の心理学をやっていてもあんま聞かない言葉だろう。そのまんまだが、動物の認知や行動を調べる際に、人間を中心にして物事を考えるって見方だ。これだけだと大層な話でもないよな。今日は人間中心主義について、ちょっと思い出話をする。

 

その思い出話の前に、前提となる事柄を紹介しよう。「人間中心」といっても、いろんな意味がある。人間の認知を頂点として、そこに至るまでの道筋を探るのが動物の認知研究という、ある種の自然の階梯(scala naturae)的な見方を指すこともある。これは見るからにやばいよな。明らかにやばいのに、ナチュラルにそういう言説をかまされることもなくはない*1。別の意味では、我々が人間である以上、人間の認知から思考を出発せざるをえないよね、みたいなバイブスを表すこともある。場合によっては、かなり酷いものの見方に対して使うこともあって、「その認知がこの動物にあるはずがない」という先入見をわざわざ人間中心主義と呼ぶ人もいる。この先入見はただの偏見なので、科学者としていかがなるものかと思うが、対象としている分類群次第では、査読でそういう態度をとられることもあるらしい。やられた人はたまったもんじゃないだろう。

 

ちなみに似たような言葉として擬人主義(anthropomorphism)というのもある。これは、動物を人になぞらえて理解しようとする思考を指す。もともとは、神を人間の視点で理解しようとする、非敬虔な態度を示す神学用語だった。それが20世紀に入って、いつの間にか動物に対して使われるようになった。擬人主義ってのも、ヒューリスティック擬人主義だとか、状況的擬人主義だとか、いろんなタイプに分類されていて、こっちはよくてあっちはダメみたいな議論がある。擬人主義はダメだよ、と俺たちは学部生の頃に習ったが、実は最近の科学哲学では「いや、しょうがないんじゃ?」みたいな論調が多い。その「しょうがなさ」と実験心理学における「しょうがなくない」落とし穴、どちらにも言い分がある。というか、指しているものが違う場合が多いようにも思う。この溝については、誰かが頑張るところだろう。今なら日本だとたぶん後藤さん、海外だと信頼できるのは Louise Barrett あたりだろうか。「擬人主義、ダメ絶対」の比較認知第一世代も、「擬人主義も運用次第」第一世代の Frans de Waal も、すでに一線を退いたり、お亡くなりになっている。次の世代の人が、また違った切り口から何か言い出すことだろう。

 

よりマイナーな言葉では「人間起源的アプローチ」(anthropogenic approach)って言葉もある。これは生物学の哲学者 Pamela Lyon が言い出した。これは人間の認知を標準モデルとして、他の分類群の認知を考えるという方針を意味している。どっちかというと、研究を実際に遂行する際のアプローチのことだ。対置される「生物起源アプローチ」(biogenic approach)は、生物があれこれやって環境の中で存続しているとき、そこに認知ってあるよね〜というスタイルの思考法だ。そこに出発点を置くと、「じゃあ、その認知ってなあに?」というのが実際問われるべきことになる。この2つのアプローチは出発点の置き方が違うわけだが、そうすると自ずと焦点化されやすい問いも変わってくる。問いが変わると研究も変わる。俺が興味があるのは生物起源アプローチでどう比較認知を進めていくのか、ということだ。とはいえポストが取れてないので、とりあえず「大事だぞ」という提起だけはしておいた。さしあたり、人間起源的アプローチがいいとか悪いとかには、俺にとっては2次的なことだ。同じ理由で、人間中心主義・擬人主義の問題に取り組むのも俺にとっては優先事項ではない*2

 

というわけで、ここまで3つの anthropo-XX をざっと紹介してきた。3つは互いに関連していないわけではないが、同じものではない。たとえば、人間中心主義的に研究を考案しつつ、擬人主義はなるべく避ける、ということは両立しそうだ。なるべく人間中心主義を避けようとしつつ、人間起源的アプローチを採用する人もたくさんいそうだ。なんなら、比較認知で一番多いのは、この手の人なんじゃないかと思う。ここで「なるべく避ける」というのは、大っぴらには言わないが、もはやバイアスとして無意識的に働くような人間中心主義的思考は暗黙のうちに受け入れている、くらいの意味で言っている。擬人主義を採用しながら人間中心主義を避けることができるのかと言われると難しそうだが...かといって、この2者が包含関係なのかは、ちょっとわからない。いずれにせよ、3つ anthropo-XX が相互に関係はしているものの、異なる問題として運用されているし、されるだけの理由もあるということだ。

 

さて、人間中心主義についての思い出話をしよう。ただ、上で述べた人間中心主義とはまたちょっと違った側面のそれだ。俺は修士から博士院生までの間、カラスとハトの採食行動をモチーフに運動学習の研究をしていた。大元のアイデアは、カレドニアガラスの道具使用があった。

 

釣竿として用いる枝を咥えるカレドニアガラス(Matsui et al., 2016 より)

 

実際にはいろいろなトラブルがあって「ついばみ」を標的行動に選んだんだが、その手前には道具使用のような繊細で巧緻な運動がどのようにしてカラスで可能になっているのかに関心があった。

 

この問題を考える上で、大学院での研究計画を考えていた学部4年生当時、俺が何したかというと、割り箸を咥えてみて、首を振ってみたのだった。あまり人には見られたくない光景である。もちろん、俺は真剣そのものなのだが、事情を知らない人にはなんとも滑稽で奇妙に映ることだろう。どこかで、このエピソードは書いたかもしれない。

 

そこで気づいたのは、道具を動かそうとすると、一緒に視界が動いてしまうということだった。俺が手で箸を使っているとき、そんなことは起きない。人間の目と手は、物理的に離れていて独立に動かせるからだ。これも当たり前のことだろう。ただ、棒を振るという、道具使用においてもっとも単純な動作でさえ、感覚運動の随伴性が異なっていることに、俺はそのとき気づいたのだった。このとき以来、俺の大学院でのテーマは鳥がクチバシを使って巧みな運動をする際、クチバシという効果器に伴う必然的な感覚運動の制約をいかにして乗り越えているのか、という問いに定まったのだった。なお、答えは出ていないが、暫定的に何がわかって、何がわからないのかくらいは大学院を出ていくときにまとめた

 

ここで人間中心主義に戻ってくる。俺がカラスのような身体を持っていたら、そもそもこんな問題は問題にすらならなかったのではないか。生まれつきクチバシを使ってモノを操作するのが当たり前で、それに何の不自由もないだろうからだ。それは、俺たち人間が二足歩行しているのは相当に凝った仕組みがあるわけだが、そんなことは気にもかけていないのと変わらない。でも、これは明らかに他の動物と比べて妙だから、みんなが興味を持てる。一方、俺が鳥のクチバシに驚きを見出したのは、俺に人間の身体レイアウトが備わっていたことと無関係ではないはずだ。あるいは、俺がオウムだったら、人間だったときと同じように「カラス問題」に行き着いたかもしれない。オウムは脚で器用にモノを操作するからだ。カラスに対して「あいつらさ、よくクチバシだけで頑張れるよな」と不思議がるオウムの俺がいる世界線もあったかもしれない。

 

とにかく、人間が持つ身体と運動器官の構成が、逆説的に俺をカラスの感覚運動系が抱える課題に誘ったということだ。一応断っておくが、この事例を人間中心主義と呼ぶ人はあまりいない。でも、これも拡大解釈すれば、人間中心主義的なセンス・オブ・ワンダーだったことには違いない。人間中心主義は俺の標的ではないと上ではいったが、あながち無関係ではなかったようだ。みんなが既に、ああでもない、こうでもないと言ってるから、別に俺の出番はないと思っていたのだけど。こいつは味のしなくなったガムじゃなかったらしい。だからなんだという話ではあるのだが、さらに多くの動物研究に親しめば、もっといろんな身体レイアウトとその動作を不思議がれるかもしれない。そういえば、ナイカイムチョウウズムシの研究を始めたときも、出会った人全員に左右相称動物の進化について、学びたての知識を熱弁していた。前にも書いたが、John Kaas 編著の "Evolutionary Neuroscience" だ。青年のときの俺も、30代の俺も、根本的にはさして変わっていないらしい。

 

論文を読んでいるときに人間中心主義という言葉が出てきたところで、ふいに思い出したので書き始めてみたが、何だかとりわけ教訓もない話になってしまった。もう4000字近くも書いてしまって、消すのも忍びないし、このまま公開することにしよう。

 

 

*1:そういうときはどうするか。なるべく早く話を切り上げる。

*2:ただ、比較認知という学問自体が「心の相対化」みたいなものを内在している以上、広い意味での人間中心主義へのアンチテーゼには、不可避にコミットしているとは言えるかもしれない。そこは別に否定する気もない。

ムチョウウズムシはじめて一年半、自分語りをする

新しい論文が出た。今回の研究ではナイカイムチョウウズムシという動物を用いた。俺は名刺に今まで研究したことのある動物のシルエットを入れているんだが、ウズムシを入れたものに新調してとってもゴキゲンである。ちなみに、プレプリントでも同じ内容が読めるよ。

 

共生藻の緑がとても映える

 

どんなことをやったのかというと、彼らは走光性を見せるので、T字迷路にLEDを3個ずつ取り付けて、左右の光の強さ(LEDの数)の比をいろいろ変えて、ムチョウウズムシたちを走らせてみた。すると、左右のアームの選択率が光の強さに比例するということがわかった。このような選択パターンが道具的行動で見られたら、「対応法則」という名で呼ぶ習わしになっている。心理学では、対応法則はとても有名な現象で、ハト、ヒト、サル、ラットをはじめ様々な脊椎動物で報告されているだけでなく、ハチやショウジョウバエでも見つかっている、比較的適用範囲の広い現象だ。それに、レバー押しのような道具的行動だけでなく、採餌パターンやパブロフ型の学習でも同様の法則が成立することも知られている。本当は個体レベルで成立するのが対応法則のミソではあるんだが、今回は非道具的行動である走光性で、かつ、集団的な選択パターンでも似たような規則性が確認されたということだ。

 

このムシたちは体内に共生藻をもっていて、その光合成で栄養を摂取している。つまり、光向かっていくことは、彼らにとって採餌的な機能を果たしている。そこで、24時間事前に光暴露して同じ実験もやってみた。脊椎動物だったら「飽和化」(satiation)の処置に相当するだろう(するのだろうか?)。そうすると、選択率がLEDの比に関わらず50:50に近づく。ようは、選択がいい加減になる...という結果だ。

 

というのが大まかな内容なんだが、解説記事もあるので、よかったら見てほしい。

www.growkudos.com

 

掲載先は Journal of Comparative Psychologyってとこで、IFだのなんだので見たらそれほどではないが、創刊1921年の比較心理学の老舗雑誌誌である。心理学者のみんなが大好きなJournal of Experimental Psychologyが1916年創刊*1なんで、APAの中ではかなり古い。俺はあまり普段投稿するジャーナルには大したこだわりはなく、なんとなくで選んで出してしまうんだが*2、今回は確信犯的に心理学の雑誌に載せたかった。心理学者が手をつけていない分類群の動物を相手に、心理学の質問をぶつけてみたからだ。と、カッコつけてみたものの、この研究は私費でやってるのでOA誌には出すという選択肢が存在しなかったという理由もある。

 

正直、今回は初めてカラスの論文が出たとき以来の喜びを感じている。大学院に入ってから10年で、いろんな研究に触れてきたけど、やはり自分で選んだ種(ここはすごく大事!)で、自ら実験系を確立し、飼育、実験、分析、執筆すべての工程を手がけた研究に勝るものはない。そこで、ちょっと自分語りをしてしまおうと思う。

 

そもそもどうしてナイカイムチョウウズムシで研究をしようと思ったのか? この動物を見てみたいと思ったのは、大阪にくる前、2024年の冬からだ。実は行き当たりばったりではなくて、ピンポイントで無腸動物に興味があったんだ。当時の俺は、John Kaas 編著の "Evolutionary Neuroscience" を一人で夜な夜な読んでいた。これ、読んでて楽しい本だよ。その第4章 "Invertebrate Origins of Vertebrate Nervous Systems" に何やら奇妙な分類群が紹介されているのを見つけた。珍無腸動物を知ったのは、そこが初めてのことだった。左右相称形のすべての動物の基底群にいるかもしれないという記述を見て、この分類群が印象に残った。

 

げっ歯類の研究室に行くことが決まって、それはそれでキャリアの一環として悪くない選択だと思っていた*3。今でも、その時に他に取るべき手があったかといえば、プライベートも含めたら、あまりなかったと思う。なので、それはそれでよい。とはいえ、やはり自分の中の比較心理学者成分(?)が薄らぐことに対する一抹の不安があった。そこで、珍無腸動物で何かできないだろうかと夢想する夜が続いたのだった。実際、意義なんてものは簡単に思いつくし、ほとんど自明なことだ。心理学の現象のおそらく99%は脊椎動物で報告されているし、無脊椎動物でも9割以上は節足動物(ようは昆虫や甲殻類)だろう。なので、それ以外の分類群を対象にした心理学は、それだけで行動現象の記載的な意味がある。

 

ただ、それ以上に面白いのは、「認知」という概念の射程が大きく見直されている昨今の状況だろう。今やこの言葉は、脊椎動物を飛び越して使われるようになり、場合によっては植物や原生生物にも使われるようになった。ハチの高次認知には、もはや躊躇いと誤魔化しのために入れるクオーテーションマークをつける必要もないし、粘菌の「記憶」、植物の学習やコミュニケーション、ゾウリムシの行動の柔軟性と、例はいくらでもある。認知自体、多義的で曖昧な概念だが、どのような定義を採用しようと、その起源というのは大事な問題だ。こういう問題を特別に大ごとだと思っているひとたちは、 "minimal cognition" あるいは、"basal cognition" という言葉を使う。俺もよく使う。minimal/basal cognition を考え始めると、珍無腸動物というのは魅力的な存在だ。下の図のように、彼らは系統的にも面白い位置にいるし、明確な左右相称形の身体をしつつ、肛門のない体制と、前部にやや集中した神経系をもつ。どの側面をとっても、左右相称動物の初期進化、すなわち心理学的にはminimal/basal cognitionを調べる上で、興味深い特徴をもっている。minimal/basal cognitionあたりの話は、またどこかで詳しく書こうと思ってるので、このくらいでいいだろう。

 

 

そういうわけで、日本にも珍無腸動物はいないのかとググってみたら、無腸目の代表選手のチンウズムシは海底にいるようだし、皮中神経目の種はどこにいるのかも俺にはよくわからなかった。これじゃあ素人には厳しいものがある。そう、諦めかけていたら、広島大学彦坂暁先生がウェブサイトにナイカイムチョウウズムシの情報を公開してくれているのを発見した。なんと、飼育の方法や採集方法、採集地まで載せてくれているのだから、これはもう現地に見にいってみる他ない。というわけで、大阪に引っ越してきて最初のゴールデンウィークに、一番近い採集地である淡路島に向かった。

 

淡路島の海水浴場。実はBBQ禁止だが、いつ行っても開催されている...

 

大まかな場所は把握しているとはいえ、海岸線のどこいるかまではよくわからない。干潮時のタイドプールにいるらしいとは把握していたが、訪れた場所は普通の公共海水浴場で、一様な砂浜が広がっているばかりだ。海水に浸っているところなのか、波打ち際か、砂の深さはどれくらいに潜んでいるのか、実際に来てみるといろいろ疑問が湧く。フィールドワーカーの人たちってのは、場合によってはこれよりもずっと過酷な環境の中で、何年も調査をやってるんだから頭が下がる。家族連れがバーベキューをしたり、水遊びをしたりする横で、よくわからないままに砂いじりをすること2時間くらい、ついに見つけることができた。

全然ウズムシが見つからなくて、やや疲弊している俺

 

ちなみに、後に他の場所にもあっちこっち行ってみた。俺はそもそもツーリングが趣味なので、遠出するのは全然苦にならないしな。すると、岡山や広島ではもっとあっさり見つけられることもわかった。大量発生しているところには、1 mm 四方に

数万匹はいるんじゃないかというくらい潜んでいる。

 

岡山県牛窓の海水浴場。ちょっとした窪みに、ムチョウウズムシが溜まっている。

とりあえず最初は、この動物をじっくり観察してみようと思って、毎晩家でじっくりと眺める日が続いた。俺は動物研究者の中ではそんなに観察眼が鋭い方ではない。これは謙遜ではなくて、マジでそうなんだ*4。なので、半分は下手の横好きなんだが「こいつら、意外とよく動くな...」なんて思いながら、昼はマウス、夜はムチョウウズムシの日々が続いた。とりあえず、地面の材質変えて選好が出るかとか、振動刺激に馴化するかとか、いろいろ試してみたが、どれもいまいちだったので、とにかく安定して出てくれる走光性から始めることした。

 

その最初のセットアップがこれ。4Kのウェブカメラで、100均(Seria)で買った「アリさん観察キット」(ようは、直線走路だ)とLEDライト、そしてドイツ時代に買ったパソコン。これで見た走光性の結果を、関西心理学会に持っていったのだ。

 

とりあえず走光性を見てみたときの装置。背後は妻のクローゼット

意外とウケて、すっかりやる気になったので装置を改良することにした。LEDは電池式だといつの間にか光が弱くなるので、電源式のものにし、直線走路は上から見ても死角ができないような設計で3Dプリントし...と、もうちょい真面目なセットアップにした。その結果は現在、プレプリントで公開中だ。 直線走路の次は、選択実験だろうということで、今回の研究が生まれた。その際、犬会でウズムシの発表したときにもらった、お友達の八重樫くんのコメントも大きな助けになった。家に帰ってご飯食べたりお風呂入ったりして、寝る前のフリータイムにしか実験できない中、まあ、よくやった方だろう。

 

という顛末で、今回の論文が生まれた。この動物に関わる出来事は、とにかく楽しいことばかりだった。予想通りに行かなかったことも含めてね。「これで、期待通りにはいかないんだ?」という驚きすら面白い。こういう感覚は、大学院生以来、久しぶりのことだった。先月の動物学会では、無腸動物の研究者の方々にも会うことができたのも嬉しいことだった。瀬戸内海にいける場所に住んでいるうちに、やりたいこともある*5。昼のカタギの仕事の傍ら、まだまだ続けていきたいと思う。

 

 

*1:余談だが、初代編集長はJohn Watsonである。

*2:と、嘯いてみたが、いわゆる「高IF雑誌」は全然ないんだけどね。

*3:面接でも、率直にそう言った。

*4:ついでにいえば、俺はシェイピングも下手だ。なので正統派の動物心理学者としても、エソロジストとしても、本来は才覚がいまいちなのだ。そのぶん、他の面でがんばってカバーしようとしているつもりではある。

*5:例えばシンプルに、条件づけとかな

William McDougall "The hormic psychology" の全訳

ウィリアム・マクドゥーガルは面白い心理学者なんだけど、やや位置付けづらい。ただ、それはこの人が本流から外れた突飛な人物だからではない。本能の概念はローレンツに影響したし、ワトソンと公開討論をしてボコボコにしていたり、 "Psychologies of 1925" および "Psychologies of 1930" という当時の一線級の人たちを集めた論集では、両方に呼ばれている。イギリスで開催された「本能」に関するシンポジウムではモーガンやスタウトと肩を並べて議論していた。心理学を「行動の科学」と言い出したのも、マクドゥーガル*1。初期の著書には『生理学的心理学』(1905)と『社会心理学入門』(1908)がある。

 

彼の心理学は心理学史では「本能心理学」と呼ばれることが多いけど、本人は "hormic psychology" というのを唱えていた。この hormic は "horme" というギリシア語由来で、原動力、衝動、活力といった意味合いのようだ。この名前には、意志的な行動を突き動かす目標追求性を可能にする、そんな有機体の構成とは何かを知りたいという気持ちが込められている。

 

名前があまり残っていないのは、いろいろなものを包摂しようとしているからカテゴライズをしにくいのがまず推察される。新行動主義、ゲシュタルト心理学精神分析学と三大潮流なんて形でくくってしまうようなまとめ方だと、この人はこぼれ落ちてしまう。他にも、優生思想にシンパシーがあったり、アニミズム擁護で世紀論者扱いされてしまいがちだったり、心霊研究に傾倒していた時期があったりしたからかもしれない。例外的に、Hearnshaw の "A Short History of British Psychology, 1840-1940" では、一章まるまるマクドゥーガルに割いている。この本で、一人に一章割いているのは他にはアレクサンダー・ベインくらいなので、破格の対応だろう。

 

それはそうと、言っていることにはなかなか味わいがあるので、今回は McDougall (1930) "The hormic psychology" の全訳を載せようと思う。訳語にブレがあるんだが、途中で直すのが面倒だったので、ざっくりとした訳だと思ってほしい...というか、読む人が果たしているのかどうか...。ただ、McDougall (1930) は、本人の生理学的心理学、社会心理学、性格心理学が一貫した興味の下で展開されていたこともよくわかるし、ゲシュタルト心理学への高評価も垣間見れる。また、モーガンやロエブ、ジェニングスといった比較心理学者たちが当時の心理学の中でどう受け入れられているかが散見されたり、明確にベルクソンの『創造的進化』の影響があったりと、好事家にとっては垂涎モノである。

 

書誌情報はこちら

McDougall, W. (1930). The hormic psychology. In W.Murchison (Ed.), Psychologies of 1930. Clark University Press.

 

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ホルミック心理学

1925年版の『Psychologies』において、私は目的論的心理学の提唱者として登場した。歴史の流れを少し先取りして、ここでは人間の行為が目的的であるという点がもはや議論の余地のないものであると仮定することにし、この論考では、現在かなり広く知られている「ホルミック心理学(hormic psychology)」としての目的論的心理学の特殊な形式を定義し、正当化することを試みたい。だがまずは、この仮定を正当化するためのいくつかの言葉を述べておこう。

 

15年前、アメリカの心理学者たちは、ほとんど例外なく、人間や動物の活動において最も特異で、特徴的で、そして重要な側面――すなわち目標追求性――に対してまったくの盲目であった。

あらゆる身体的行動や経験のすべての相は、刺激に対する機械的反応とみなされ、学習とは、ある反応に別の反応を機械的な連合の原理に従って加えることによる、そうした反応の修正にすぎなかった。学習の法則とは、「頻度の法則」「新近性の法則」「効果の法則」のことである。ソーンダイクによって定式化された効果の法則は、一部の人々には、その背後にある機械的な原理が思ったほど明確ではないと感じさせたかもしれない。一方、頻度と新近性の法則については、よりあいまいさの少ない、そしてより機械論的に明確な公式に置き換えることで処理すべきものと、概して広くみなされていた。

 

しかし今では、ありがたいことに、状況はすっかり変わった。動物心理学者たちは、動物の行動を記述するにあたって、その目標追求的な性質を無視することは無意味であり、それを度外視した「説明」は誤解を招くものだということに、ようやく気づき始めている。彼らはいま、「セット」や「動因」「誘因」といったものに取り組んでいる。とはいえ、彼らの目標追求性の承認は、たいていの場合、部分的でしぶしぶといった程度のものである。彼らは、「セット」が何らかの終局に向かうセットであること、「動因」が目標に向かって能動的に努力することであること、「誘因」がそうした能動的努力を引き起こすものであることを、明示的には認めているわけではない。「努力(striving)」や「意欲(conation)」といった語は、依然として彼らの語彙には存在しないのだ。

 

現在のアメリカの人間心理学に関する著述でも、ほぼ同様の状況が見られる。 もはや人間の活動の目的的な性質を完全に無視して問題を論じたり、実験を行ったりするようなことはなくなった。 「セット」「動因」「誘因」といった語は、動物心理学において不可欠なものと認められたことから、たとえそれらに擬人的な含意があるとしても、人間の問題を論じる際に登場することが許されるようになった。 「優勢な反射」「動機」「動因」「卓越した傾向性」「目的への衝動」「根源的欲求」、さらには「目的」といった語までもが、現在では教科書に登場するようになっている。 ある徹底して機械論的な教科書(註1)では、全体を通して「目的」という語がほとんど出てこないにもかかわらず、人格に関する最終章では、「支配的目的(dominant purposes)」が最重要の役割を担うものとされている。 かつてほとんど無視されていた動機づけも、今では中心的関心事のひとつとなっている。 しかしながら、すでに述べたように、我々はいま過渡期にある。 そして、人間の行為の目的性に対するこうした承認は、どれも部分的かつしぶしぶといった程度にとどまっている。 例えば、ある著述(H. A. Carr)では「人間は、自らの目的に適うように環境を変えようとする」と述べながら、その「目的(purposes)」という語が何を意味しているのかについては、どこでも説明していないといったことが起きている。 むしろ後のページでは、「われわれは、ある行為の間接的な結果がその行為を動機づけたり、目標となったりするという素朴な前提を避けねばならない」とわざわざ述べている。 人間および動物の行為における目的追求性や目的的性質をいくぶんかでも認めている著者たちも、ほぼ例外なく、次の三つの型のいずれかに分類される: (a) もし神経系についてもう少し詳しくわかれば、そうした行為も機械的に説明できるだろうと示唆する者たち、 (b) それを明言する者たち、 (c) そして稀にではあるが、そうした機械的説明を実際に試みようとする者たちである。

 

目的的な活動に対する承認は、いまだに部分的で、生ぬるく、しぶしぶとしたものではあるけれど、私はこう言って差し支えないと思う――いまやそれを完全に無視しているのは粗野な行動主義者たちだけであり、彼らを除けば、アメリカの心理学はもはや目的論的になっている、と。つまり、人間や動物の行動の目標追求的な性質を無視したり否定したりすることはなくなり、それを正面から取り組むべき問題として受け入れている、という意味において、目的論的になったのだ。

 

それゆえ、この神の恩寵の年たる現在においては、目的性を認め、予見や衝動、欲求、衝動的欲望、願望といったものを行動の動機として考慮するという、あいまいな意味での「目的論的心理学」を擁護したり提唱したりするのは、もはや無意味であろう。

 

私の課題はより困難である。それは、「ホルミック(hormic)」という形容詞によって表される、はるかに根本的に目的論的な心理学を正当化するという課題である。この心理学は、自律的であることを主張し、物理学において現在通用している原理に縛られ、それによって制限されることを拒む。それは、目標に向かって能動的に努力するということこそが心理学の基本的な範疇であり、それは機械論的に説明されたり、機械論的な連鎖に還元されたりするような性質のプロセスではないと主張する。そして、それが正しいかどうかは、将来の科学の展開に委ねられている――すなわち、物理学が今後も機械論的であり続けるのか、それとも物理的な出来事に目的追求的(hormic)な解釈を取り入れる必要が出てくるのか、そして最終的に、自然についての科学が一つになるのか、あるいは「機械論的科学」と「目的論的科学」という二つに分かれることになるのか、それは今後の成り行き次第だというのである。なぜなら、ホルミック心理学は、目的論的な記述や説明を使うことを恐れない。むしろそれはこう主張する。私たちが適切に記述できるあらゆる活動は、間違いなく、否応なく目的論的である。それらは、何らかの目標の追求のために、あるいは自ら予見し達成を望む何らかの結果のために、私たちが行う活動なのである。そしてホルミック心理学はさらに主張する。こうした活動こそが、すべての心的活動、そしてすべての真に生命的な活動の、真正な範型であると。また、私たちが人間のより曖昧な行動の事例を解釈しようとするとき、あるいは動物が明らかに目標を追い求めるような行動をしているのを観察するとき、それらを、私たち自身の明示的に目的をもった行動と同種のものとして扱うのは、十分に正当化されることであるとするのである。

 

近年までのアカデミックな心理学は、下から上へと高次の活動を説明しようとしてきた。つまり、単純な物理的・化学的出来事を出発点として、それらから高次の行動を導き出そうとしたのである。それに対してホルミック心理学は、出発点をまったく逆にする。それは、明確かつ明示的に目的的であり、かつ私たちがもっとも深く理解できるような高次の活動を出発点として受け入れ、その理解を、より単純ではあるがより不明瞭な種類の行動へと拡張していこうとするのである。

 

 

目的論──内在的なものと外在的なもの

私は、「目的論的(teleological)」という用語をこの議論の早い段階で導入しておく。というのも、読者を無邪気なうちにこの立場へと引き込んでおいて、あとになってこっそり目的論に巻き込んだ、などと見なされるのは本意ではないからだ。現代の科学は、あらゆる目的論に対して嫌悪感を示してきた。ほとんど「目的論コンプレックス」とでも呼びたくなるようなものだ。この非合理的で筋の通らない嫌悪感の起源と展開には、一定の理解が可能である。この態度は、科学と宗教の闘争の中で発展してきたものだ。自然の不可解な現象について、神学者たちが好んで用いた説明は常に、「創造主の目的」を表現し、それに従って支配されている、というものであった。つまり神は自然界の諸存在を一つの壮大な体系の部品として設計・構築したのであり、それぞれの存在は神の目的を表し、それを実現するように出来ているのだということだ。神学者たちが、自然の存在物は一度きりの創造によって、あとは神の介入なしに目的を果たすように出来ていると考えたにせよ、あるいは神の御手が今もなお自然現象の流れを積極的に導いていると考えたにせよ、どちらにしてもこうした目的論的説明は、近代科学の精神にはまったく受け入れがたいものだった。というのも、科学はすでに多くの出来事を自然因による結果として説明することに成功しており、そうした説明をできるかぎり拡張していくことが、科学の基本的なプログラムとして受け入れられていたからである。

 

科学が提供する説明は「自然主義的」と呼ばれるのが通例となり、神学による超自然的説明と対比されるようになった。 さて、「ある出来事を説明する」とは、それがどのような原因によって生じたのかを明らかにすることである。すなわち、それ以前の出来事の連鎖がどう作用した結果としてそれが生じたのかを明示することである。 初期の科学者たちは、多くの出来事を、私たち自身の因果経験のモデルに従って解釈しがちだった。 すなわち―― ある特定の出来事を可能性として予見し、それが実現することを欲し、その欲望にしたがって行動を起こし、結果として望んだ出来事が実現するように、出来事の流れを自らの意思で導くというような、われわれの日常的な因果経験に基づくモデルである。 こうした説明は、「目的論的因果(teleological causation)」を呼び出すものである。 ただしそれは、神学者たちの言うような外在的・超自然的な目的論ではなく、もっと自然な目的論的因果であり、 つまり、人間が望む目標を実現するために能動的に働きかけるという、誰もが自分自身の経験を通じてよく知っている因果的活動である。 原始人は、自然界の多くの現象についてこのタイプの説明を適用し、多くの自然物を人間のようなものとして擬人的に捉えていた。 一方、現代科学は、それら自然物にはそうした人間的性質はまったくないと教えてきた。 自然を研究した初期の学者たちも、こうした説明を完全に放棄したわけではなかった。 彼らは、原始人よりも自然現象を分析的に捉えていたが、それでも自然物を構成する要素を、欲望によって動かされ、自然に求める結果を達成しようと努力する存在として目的論的に理解しようとする傾向があった。 しかし、ニュートン力学の登場によって、この種の目的論的説明は自然科学の領域から排除されることとなった。 なぜなら、多くの物理的現象、特に天文学的な現象の多くが、質量・運動・運動量・引力・斥力といった、すべて正確に測定可能な要素によって十分に説明できることが明らかになったからである。 そして、こうした原理によって、多くの現象が厳密に予測可能となった。 このタイプの因果説明では、「何かを予見すること」「何かを欲すること」「それに向かって努力すること」、さらには未来の出来事への言及そのものが完全に排除された。 ある出来事の説明は、それに先行する出来事だけを参照して与えられるものであり、可能性としての結果や将来の予測に言及する必要はまったくなかった。 説明は、あらゆる目的論の痕跡を一掃されたものとなった。 この説明の枠組みは自然科学において非常に成功をおさめたため、 たとえ後になって、無生物界のすべての現象を厳密な機械論で説明するという希望が幻想だったとわかったとしても、 このような非目的論的(ateleological)な説明が、自然主義的説明のあるべき標準的モデルとして確立されてしまった。 この非目的論的説明こそが、広い意味での「機械論的説明(mechanistic explanation)」を意味している。 科学におけるこうした機械論的/非目的論的説明が「自然主義的」と呼ばれ、 神学における超自然的・目的論的説明の代わりに受け入れられるようになったのだ。 ここまではなんら問題なかった。 この手続きは完全に正当なものであり、当然の帰結でもあった。 だがこの時点から、ある残念な混乱が非常に広く一般化してしまった。 その混乱とは、言葉のもつ力にとらわれてしまい、 神学者のいうような外在的な目的因だけでなく、人間自身の内在的な目的因(teleological causation)や因果的活動までもが、超自然的なものとみなされてしまったという点である。

 

私が言わんとしていることは、これが不幸かつ不当な混同であったということだ。そしてこの混同は、心理学や生物学の問題に取り組むときの多くの科学者の思考を、いまだに支配している。 人間の活動において明らかに見られる目的論的な因果を真剣に受けとめ、それを実在し、有効な因果として考察すべきだという提案がなされると、 科学者たちはそれを超自然的な因果に関与するものだとして拒絶する。 というのも、彼らは神学的な外在的目的論を否定することを学ぶ過程で、 人間という有機体の内にある内在的目的因までもが超自然的なものだとみなすようになってしまったからである。 しかし、それをそのように考える正当な理由はどこにもない。 望み、努力し、そして目標を達成することは、丸太から転げ落ちるのと同じくらい自然なことである。 しかも、そうした目的論的因果のあり方は、私たちにとって極めて馴染み深いものだ。 実際、私たちは機械論的因果よりも、目的論的因果の方をはるかに親密に理解しているのである。

 

19世紀においては、無生物の世界に起こるすべての出来事は、厳密な機械論的・ニュートン力学的な因果によって説明できるという信念が広く支配的だった。 そのような時代において、機械論的因果だけが唯一の「自然主義的因果」のかたちであると見なすのは、ごく自然なことだった。 そしてその延長として、内在的な目的論的因果(intrinsic teleological causation)をも、神学者たちの唱える外在的目的論的因果(extrinsic teleological causation)とひとまとめにして、超自然的なものとして扱うようになってしまった。 しかしいまや、そうした信仰や希望が幻想にすぎなかったことは明らかとなり、 私たちには機械論的因果の本質に対する洞察など、何ひとつないということもはっきりした。 その結果、内在的目的因を否定する根拠は消え去り、もはや何ひとつ残っていないのである。

 

内在的目的因(teleological causation)に対する現在残っている偏見は、おそらく単に厳密な機械論的・ニュートン的な因果を信じていた過去からの名残というだけではないだろう。 人間という行為主体がもつ目的論的因果を受け入れるということは、心的出来事(psychical events)に因果的効力があることを信じるということになる。 そして多くの人々は、それを認めることはすなわち、心身二元論(psychophysical dualism)やアニミズム(animism)を受け入れることに他ならず、 それは一般に好まれる一元論的世界観(monistic worldview)に反することであり、 さらに無機物から有機体への進化における連続性の理論にも逆らうことになる――と感じているようだ。 だが、こうした考えは明晰な思考をほんの少しでも働かせれば、すぐに消え去るべき誤解である。 というのも現在、進化の連続性を前提としつつ、かつ一元論的でもある二つの理論が、哲学者と自然科学者のあいだでかなりの人気を博しているからだ。 すなわち、心的一元論(psychic monism)と 創発理論(emergent theory) である。

 

心的一元論(psychic monism)は、ポールゼン(Paulsen)、モートン・プリンス(Morton Prince)、C・A・ストロング(C. A. Strong)、デュラント・ドレイク(Durant Drake)、そしてL・T・トローランド(L. T. Troland)によって展開されてきた。この考えの下では、心的出来事に因果的効力があることを疑う理由など何ひとつない。 なぜならこの立場は、そもそもあらゆる出来事が心的なものであると教えるからである。 モートン・プリンスは、その常に若々しい精神をもってこの点をはっきりと理解しており、 したがって1925年版の “Psychologies” において、目的論的心理学の提唱者として登場することをためらわなかった(p.27)。 ところが不思議なことに、トローランド博士に関しては、 心的一元論を支持しているにもかかわらず、それによって心理学を機械論的説明という不毛な地平の上から引き上げる絶好のチャンスを、まったく無造作に投げ捨ててしまっているように思われる。

 

創発理論(emergent theory)もまた、心的一元論と同様に、心的出来事に因果的効力があることを認めており、 さらに、有機的な進化が無機的な進化と連続していることを主張している。 そして、この理論もまた一元論的(monistic)な理論である。 したがってこれは、 目的追求的な行動や活動の現実性を無視することのできない心理学者でありながら、 それでも一元論と進化の連続性という立場を堅持したいと考える者にとって、 そのすべての要件を満たす理論ということになる。 しかもこの理論は、現在非常に高い評価を受けており、 S・アレクサンダー(S. Alexander)、L・T・ホブハウス(L. T. Hobhouse)、ロイド・モーガン(Lloyd Morgan)、H・S・ジェニングス(H. S. Jennings)、R・B・ペリー(R. B. Perry)、W・M・ウィーラー(W. M. Wheeler)といった、傑出した思想家たちによって支持されている。

 

このような選択肢が心理学者に開かれている今、 心的活動が自然界において因果的効力を持つことを否定する正当な理由はもはや存在しない。 内在的目的因(internal teleological causation)を超自然的なものとして扱い続ける理由もないし、 人間の行為が本質的に目的的であるという事実から目を背ける理由も、まったく存在しない。 では、なぜこれほどまでに広く、人間の目的的行為や動物の目標追求的行動を率直かつ自由に認めようとしない傾向があるのだろうか? おそらくその主な原因は、私たちの多くがかつて、心的現象は因果的には何の役割も果たさない副産物(epiphenomena)にすぎないとする説や、 心と身体はただ並行しているだけ(psychophysical parallelism)とする説といった、いずれも非論理的で、きわめて不満足で、今では信用を失っているインチキ理論を信じこまされて育ってきたからであろう。 こうした理論は、機械論的唯物論に支配された一時代の産物であり、 あらゆる因果を機械論的に捉えるべきだという根拠の乏しい偏見に染まっていた時代に編み出された場当たり的な妥協策にすぎなかった。 あるいはもっと単純な理由かもしれない。長いあいだ、物理科学が機械論的・非目的論的な因果だけで非常にうまくいっていた。 だから、「心理学や生物学もそうあるべきだ」という思い込みが広まったのかもしれない。 だがこの主張に対しての反論は、もはや明白だ。 この方針こそが、心理学と生物学を袋小路へと追い込んでいるのだ。 例えば、生物進化における唯一の純粋な機械論的理論だったワイズマン主義はすでに破綻しており、 現在では、創造的進化やオルトジェネシス(直線的進化)といった、曖昧ながらも新しい理論が次々と現れている。 ラマルク的な獲得形質の遺伝の可能性に対する関心も復活している。 さらに、生理学者たちも機械論的伝統から離れつつある。 アメリカ心理学会の会長講演でK. S. ラシュレー(K. S. Lashley)博士は、自身の広範な研究成果に基づき、 脳の働きに関する通説を根本から揺さぶる発言を行いながらも、代わりとなる理論を提示することすら避けた。 また、アメリカ生物学界の主要人物であるリリー(Lillie)、ヘリック(Herrick)、ジェニングス(Jennings)の3名は、 自然界における「心的活動の因果的効力」の承認を強く訴えている。 イギリスでは、J. S. ホールデイン(J. S. Haldane)博士とE. S. ラッセル(E. S. Russell)博士が中心となり、 機械論的説明原理は生物学において不適切であると主張する心理生物学派(psychobiological school)を立ち上げている。 ホールデイン博士にいたっては、「生理学が生命のメカニズムを解明しつつある」とオウムのように繰り返される主張を、「たわごと(clap-trap)」と痛烈に否定している。 そしてドイツでは、各種人文科学に関心をもつ思想家たちが、しびれを切らし始めている。というのは、大学で教えられている「厳密な科学的心理学」が、 人間科学にとって何ら心理学的基盤を提供していないという事実に、 自らが必要とする心理学──すなわち、目的論的な人間活動を率直に認め、機械論的原理を投げ捨てた 精神科学的心理学(geisteswissenschaftliche Psychologie)――を構築しようと動き始めているのだ。 最後に、ゲシュタルト心理学派(Gestalt school)もまた、機械論的解釈に対して抗議の声を上げているのである。

 

物理科学の機械論的理想による生物学の支配が終わりつつあることは明らかである。 そして、物理科学それ自体も、厳密な決定論と完全な予測可能性を放棄しつつある。 では、心的因果(psychical causation)に対する、あの旧来的な偏見を正当化できる理由は、いったいどこに見出されるのだろうか? というのも、もし心的因果が何らかのかたちで認められるとすれば、それは目的論的因果(teleological causation)以外にありえないのだから。 なぜ、心理的なものを扱うことを本業とする私たち心理学者が、 この領域こそが自然の中にある非決定的かつ創造的な要素であると大胆に主張してはならないのか? なぜ、それを物理学者や生理学者に示してもらうのを待ち、彼らに従ってそれを認めるよう強いられるべきなのか? 自然界における心的活動の効力を認めることは、因果性そのものを否定することではない。もっとも、多くの人がそう誤解しているようだが。 科学は、たとえ厳密な決定論にはこだわらなくても、因果性には固くしがみつくべきである。 心的出来事は、たとえ目的論的であっても、条件があり、因果的な先行要因を持っている。 しかしその中では、予見するという活動が、現実の構成要素のひとつとして実際に作用している。 それは、予見された未来の出来事そのものを生じさせるのではなく、 その出来事を「可能である」「望ましい」「忌まわしい」と評価するという予見のはたらきが、 現在の全体的な構成において、共同して作用する要因となるのである。 言い換えれば、価値づけ(valuation)とは心理的機能であり、 個人および人類の過去の歴史に根ざしたものである。 そしてそれは、「差異をもたらす行為」である。 予見された可能性にそれが適用されるとき、 私たちの行動は、それを追求する、受け入れる、回避する、あるいは拒絶する方向へと傾けられる。

 

きっと未来の時代の人びとは、私たちの時代の奇妙な偏向を振り返り、次のように記録するだろう。生物学諸科学の発展がまだ初期段階にあったこの時代では、科学者たちは種の進化の中で、未来を予測し、事の成り行きを前もって見通す力が一貫して発達し、ついには人間において、それがもっとも顕著な特徴とまでなったことを明確に認識していた。それにもかかわらず、彼らはなおも頑なに、この驚くべき能力が生存競争において何ら役に立たないと否定し続けたのである、と。

 

 

目的論的、あるいは目的的心理学の2つの形式:快楽主義的(hedonistic)なものとホルミック(hormic)なもの

物理学者や生物学者の先導にならって、心的活動、予見、欲求の因果的効力を受け入れるだけの勇気を持てた心理学者は、次なる選択に直面することになる。あらゆる欲求、あらゆる努力あるいは意欲(conation)の根拠をどう捉えるかに関して、2つの理論のあいだで選ばなければならないのだ。それは、快楽主義的(hedonistic)理論とホルミックな(hormic)理論である。

 

心理学的快楽主義(psychological hedonism)は、19世紀において非常に大きな流行を享受し、いまだに消えてはいない。 というのも、それには一定の真理が含まれているからである。 とはいえ、快や不快に役割を与えるあらゆる行動理論が目的論的(teleological)であるわけではない。 アメリカの著名な心理学者二人、F・L・ソーンダイク (Thorndike)博士とL・T・トローランド(Troland)博士は、快と不快に役割を与えながらも、なお厳密に機械論的なままの理論を展開している。 この理論によれば、 ある種の活動に伴って生じる「快」(pleasure)は、その活動を “刻み込む” ものであり、 脳の構造に影響を与えて、同様の条件のもとでその活動が再び起こりやすくなる。 反対に、「苦痛」(pain)はその逆の効果をもつ。 このような快楽理論には、目的論的なものは何ひとつ含まれていないのは明らかである。 これは、いわば過去の快楽主義である。 それにしても、すべてのものごとや出来事は本質的に心的なものであると信じているトローランド博士が、 なおも純然たる機械論的因果に基づいて自身の心理理論を展開するというのは、 目的論的因果に対する偏見の根強さを如実に物語るものである。

 

第2の形態の快楽主義は、現代的な快楽主義と呼ぶことができる。 この立場は、あらゆる行動は、経験のその瞬間における快あるいは苦によって動機づけられると主張する。 この理論の機械論および目的論に対する位置づけはあいまいである。 この理論は、機械論的な形式で保持され、表明されることも可能である。 すなわち、現在の過程にともなう感情(feeling)は、全体的な構成の中で因果的効力を持つ一要因であり、 その感情が全体の過程を持続させたり、変化させたりするというのである。 またこの理論は、目的論的な形式でも表明されうる。 すなわち、現在の快が、その快を持続させようとし、さらに快を得ようとする努力を促す。 また現在の苦痛は、その苦を取り除き、安楽を得ようとする努力を促す。 この第二の形式においては、予見に役割が与えられていることにより、この定式化は目的論的なものとなる。

 

この第2のタイプの快楽主義には、真理が含まれている。 だが、それをすべての行動にあてはまる一般理論として提示するなら、それは誤りである。 たしかに私たちは、快い活動を持続させようとし、苦痛を取り除こうとする。 しかし、私たちのすべての行動、あるいはその大部分がこのように説明できる、というのは正しくない。 私たちが目標を求め、ある目的を追いかけるという活動には、しばしば快や苦痛がともなう。 しかし、それらはあくまで付随的な結果である。 私たちが食物、あるいは配偶者、権力、知識、復讐、あるいは他者の苦しみの緩和を求めて努力するとき、 その努力は、通常、それにともなう快や苦痛にはさほど影響を受けていない。 意欲・努力は、それに付随する快楽的要素よりも先行し、それに依存してはいないのである。 ただし、そうした快・不快の感情が、その努力の進行に影響を与え、変化させることはあるし、実際にそうなる。

 

伝統的な心理学的快楽主義(psychological hedonism)は、完全に目的論的である。 それは、すべての人間の行為は、予見された快を得るため、あるいは予見された苦痛を避けるために遂行されると主張する。 しかし、この理論は受け入れがたい。その主な理由は2つある。 第一に、それは、 快楽や苦痛の回避が予期されていないばかりか、むしろ 明確に「大きな苦痛がもたらされる」と予期されながらも開始され、持続される行為が明白に実例としてあり、 著しく矛盾しているという点である。 第二に、この理論は、 動物の行動の解釈に適用することができない。ただし、高等動物のいくつかの行動を除けば、という但し書き付きではあるが。 したがってこの理論は、 人間の行為と動物の行為のあいだに、原理的に根本的な差異を設けることになり、 それは、人間と動物の進化の連続性という、確かな理論に反することになる。

 

心理学的快楽主義のどうしようもない不十分さは、 それを私たちの価値づけ(valuation)の説明に適用しようとしたときに、非常に明確に現れる。 J・S・ミル(Mill)は、価値の問題に直面した際、この学説を窮地から救おうとし、 低次の快楽と高次の快楽を区別することで、それを切り抜けようとした。 しかし一般的には、彼がこの区別を導入することで自らの道徳理論は救ったかもしれないが、 その代償として、心理学的には擁護しがたい区別を導入してしまったと見なされている。

 

この点に対する反論としては、快楽主義者たちが自説の例として最も頻繁に持ち出す人間経験の領域、 すなわち性の領域を指摘するだけで、もう十分だろう。 私たちが、人間の生活における性衝動の深遠な影響について考えるとき、 その広大な射程、そのしばしば人を最も向こう見ずな冒険へと駆り立て、 または最も悲劇的な破局へと追い込むような、はかり知れない強さ、 あるいは、人々を途方もなく長期にわたる労苦に耐えさせるような持続力、 その激しい欲情の狂乱、高揚感に満ちた陶酔、そして深い抑うつを思い浮かべるとき、 私たちはどうしてもこう結論せざるをえない―― こうした現象のすべての根拠を、単にある種の皮膚感覚にともなう快さに求めようとする者は、 性に関する経験において、最も些細で取るに足らない現れしか知らないのだ。

 

 

行為のホルミック理論

こうして私たちは、行動に関する唯一の他の目的論的理論として、ホルミック理論に辿り着くことになる。 その本質は、ごく簡潔に述べることができる。 「なぜ、ある動物や人間が、これこれの目標を追い求めるのか?」という問いに対して、 この理論は 「それを求めるのが、その存在の本性だからである」と答えるのだ。 この答えはいかにも単純に聞こえるかもしれない。 しかしそれは、きわめて深い意味をもつのである。

 

ある種の動物を観察してみれば、そのすべての個体が、一定の種類の目標を追い求めて努力していることがわかる。例えば、特定の種類の食物や住処、つがいの相手、仲間との接触、ある季節における特定の地理的な領域、ある種の明確に定義できる状況における逃避行動、仲間に対する優位性の確立、そして自分の子どもたちの福祉などである。いずれの種においても、追求される目標の種類は特徴的かつ特異的である。そして、種のすべての個体が、たとえそれを実際に達成したことがなくても、また誰かの例を見たことがなくても、これらの目標を自発的に追い求める。ただし、その目標に向かって努力する際の具体的な行動の過程は、個体によってさまざまであり、経験によって大きく修正されることがある。したがって、私たちはこう推論することが正当化される。各個体は、その種の一員として、これらのいくつかのタイプの目標を追求する傾向を遺伝的に受け継いでいるのだ。

 

人間もまた、動物種の一員である。 そしてこの種にもまた、自然な目標、あるいは特定の種類の目標を追求する先天的傾向が備わっている。 この事実は、人間の行動と動物の行動を比較してみれば、非常に明瞭に示されているばかりでなく、 それ自体があまりにも明白な事実であるため、 どのような心理学者であれ、最低限の知性をもっていれば、どれほど不十分なかたちであれ必ずそれを認めている。 たとえそれが、 その数を頑固に3つにまで絞り込み、 それらを性・恐怖・怒りの優勢反射(prepotent reflexes)などと呼んでいる場合であっても、である。 ある者はそれらを「一次的欲求(primary desires)」と呼び、 またある者は「優勢な衝動(dominant urges)」や「無条件反射(unconditioned reflexes)」、 あるいは「食欲(appetites)」「渇望(cravings)」「先天的な駆動力(congenital drives)」「運動セット(motor sets)」、 さらには「遺伝的傾向(inherited tendencies)」や「傾向性(propensities)」と呼ぶ。 そして、他よりも少し大胆な者たちは、いわゆる本能という語を用いる。 というのも、本能という語は、今やアメリカの心理学者たちの間ではすっかり流行遅れだからである。 そして「いわゆる」のような限定語なしに「本能」を使おうものなら、流行に対する無頓着さがもはやほとんどはしたないレベルであるいと見なされるのだ。 それでも、「本能という語は、われわれの科学にとって失われるにはあまりにも優れた言葉である。 この言葉ほど、私がここで扱おうとしている事実と問題にぴたりと焦点を当てている言葉はほかにない。

 

ホルミック心理学は、本能的行為のみならず、本能そのものの承認を強く要請する。 本来的に、そして伝統的に、「本能」および「本能的」という語は、 以下のような動物の行動様式を指してきた。それは個体全体による複雑な活動であり、 その種にとって自然な目標の1つまたは複数の達成へと個体を導くものであり、 しかるべき状況のもとではその種のすべての成員によっておおよそ共通して示されるものであり、 状況に対して見事に適応しているように見え、 しばしば、達成すべき目標や用いるべき手段を知的に理解しているかのような印象を与えることすらあるが、 それでもその行動は、個体のこれまでの経験にはほとんど、あるいはまったく依存していないものである。

 

伝統的に用いられてきたこれらの語は、1つの問題を指し示している。 「本能的」という語は、この種の行動を記述する語である。 一方、「本能」という語は、 特定の自然な目標に向けて導かれる一連の本能的行動のなかにあらわれる、未知の何かを意味している。 では、本能という語が指し示すその X の本性とは、いったい何なのか? この問題は、古代から現代にいたるまで多くの思索を引き起こしてきた。 その答えは、「神の指」から「反射的神経機構の硬直した一片」にいたるまで、じつにさまざまである。

 

ホルミック理論の特徴は、この問いに対して、確立された科学的地位をもつ実体や出来事の種類に即して、最終的かつ完全な答えを与えようとはしない点にある。

 

ホルミックな活動はエネルギーの顕現である。 しかしホルミックな理論は、そこに関与するエネルギーの具体的な形態や変換について、あえて決定的に述べようとはしない。 この活動は、組織内に化学的形態で潜在しているか、あるいは潜在的なエネルギーの解放を伴っているように思われる。 そしてホルミックな理論は、生理化学が提供しうるこうした変換に関するあらゆる情報を歓迎する。 だが、それ以上に事実を超えて推測したり、物理科学の現行仮説に縛られたりすることは拒む。そして、根本的な事実を見失うことも拒否する。 そして、最も本質的な事実とは、 (a) エネルギーの顕現が、目標に向かって有機体を進ませるような経路に導かれていること、 (b) この導きは、たとえ漠然としていても、「現在の状況」および「目標」への認知的な気づきを通じてなされていること、 (c) 活動は一旦開始され、認知的な活動を通じてその経路に乗ると、その目標が達成されるまで持続する傾向をもつこと、 (d) そして、目標が達成されると活動は終わること、 (e) 目標への進展とその達成は快い経験であり、妨害や失敗は不快もしくは苦痛を伴う経験であること、である。

 

これらの記述は、ホルミックな活動が本質的に精神活動であることを含意している。つまりそれは、常に認知ないし気づきを伴い、そうした認知によって開始され、統御する努力(striving)を含み、さらに満足ないし不満足が伴う、ということである。この理論は、これら3つの側面(認知・努力・満足/不満足)が、あらゆるホルミックな活動における根本的な側面であるとみなす。これらは抽象によって区別することはできるが、自然においては分離されて起こるようなものではない。したがって、この理論は、ホルミックな活動が示されうるのは、ある種の複雑な組織構造をもった有機体、すなわち伝統的にモナド呼ばれてきたような自然的存在者においてのみであると必然的にみなす。そして、それらのモナドが感覚的現象としてわれわれに現れる最も単純な形態は、単一の生きた細胞である、という見解に傾く。この理論は、こうした複雑な組織が、より単純な存在からの結合によって生成されたという説明(たとえば創発進化のさまざまな提唱者によってなされたような説明)を目指すことはしない。むしろそれは、すべての事物と出来事は、原理的には最終的に単純な事物と出来事の複合体へと分析できるという通念を、きわめて懐疑的にみなす。そして特に、純粋に機械的な出来事の結合が、目的論的な出来事の創発をもたらすとする創発主義者の仮定に対しては、いっそう強い懐疑を抱く

 

この理論は、たとえそれがごく低次なものであっても、無機的領域におけるホルミックな活動の証拠を、物理科学が提供するならば、それを歓迎し、受け入れる用意がある。そして、そうした証拠を用いて、有機的領域と無機的領域とのあいだに橋を架けるために役立てる用意もある。しかしそれでも、この理論は、物理学者たちの判断を待つことに満足している。というのも、自らが依拠する事実と定式化が揺らぐことはないと確信しているからである。そして、もし有機的なものが無機的なものから連続的に進化したのだとすれば、そうした創発が生じたその無機的領域にも、ある種の精神性、心的な本性や活動の痕跡が存在していたに違いないと考えるのである。

 

 

ホルミック理論の有効性

次のような問いが生じる。ここで述べられているホルミックな理論は、あらゆる種類の動物および人間の活動の解釈にとって妥当だといえるのだろうか? この問いは2つの形を取る。1つには、ホルミックな理論は心理学の枠を越えて生理学にも適用可能なのか?すなわち、個々の器官や組織の活動の解釈において、有効に用いることができるのか? これは非常に深い問いであり、それに対する答えは、今後の科学の展開のなかでのみ明らかにされるだろう。 しかしながら我々が注目すべきは、現在の生物学者たちが、進化、遺伝、自己調整、有機的均衡の維持、そして個体内の通常の状態が撹乱された後の形態や機能の回復といった問題に対して、機械論的な原理が不十分であることをますます自覚しつつあるという点である。 実際、E. S. ラッセル博士が強調しているように、生物の活動は「すべて何らかの目的に向かって進む傾向があり、この目的達成から容易に逸れることはない......生物界におけるすべての事象は、あたかも生きた存在が何らかの目的へ向かって能動的に努力しているかのように進行している......無機的な単位と生物的な個体を区別するものは、この持続的な努力、この深く根ざした固有傾向の発露への努力なのである」と述べるとき、我々は彼の見解に共感を覚えざるをえない。 したがって、この生理学者が「われわれはすべての有機的活動を、ある意味において、心理物理的個体の行為として解釈しなければならない」と書くとき、それはきわめて妥当な提言だと考えられる。 言い換えれば、ホルミックな原理を生理学および一般生物学における根本的な諸問題の解明に適用していく可能性が、今後ますます広がっていくと期待することは合理的である。

 

第二の問いは、先天的な衝動(die Triebe)こそが唯一の動因であるのか、というものである。というのも、これこそが、私が1908年の『社会心理学』において提示した、純粋な形のホルミックな理論の主張だからである。 この点について、エディンバラ大学のジェイムズ・ドリーヴァー(James Drever)教授による再表現を引用しよう。 「人間の発達した精神および性格の基礎は、彼の本来的かつ先天的な性向に求められなければならない。あらゆる発達と教育はそこから始まらねばならず、また、教育や発達を目的とした人間による統制も、社会生活および共同体生活を目的とした統制も、すべてこの基盤においてなされねばならない。これらは多少とも自明の理であるが、過去の教育実践の多くにおいて、また最善の意図に基づく社会改革や再編の試みにおいても、これらの自明の理は無視されてきた。心理学者が関心を寄せる人間の本来的自然とは、第一に、感覚を持つ能力、知覚し、推論し、学習する能力といった「能力」から成っており、第二に、そうした活動を駆動する力である「意識的な衝動」から成っている。この衝動がなければ、能力は意味をなさない」 そしてさらに次のように述べる。 「原初的な衝動の統制がいかに複雑になろうとも、その統制は、最終的かつ根本的には原初的な衝動から統制力を引き出すものによってなされるのであって、なされることはない」 また次のようにも述べている。 「教育上、こうした特定の “情動的” 傾向に関して最も重要な事実として念頭に置くべきは、これらの中に、われわれが持つ原初の、そして究極的には唯一重要な動因があるということである。すなわち、個人の行動を決定する唯一の元来的な動因であり、彼が達成しようとする目標や、充足を求めるようになる関心のもとをなすものである」

 

もしも私の現代思想に関する理解が重大な誤りでないならば、ここで簡潔に述べた純粋なホルミック理論を補完しようとする試みは、4つあり、そしてその4つだけが検討に値する。

 

第一に、ドリーヴァー教授自身によって主張されている見解を検討しなければならないが、それは前段で引用した彼自身の記述と矛盾しているように私には思われる。同じ論考の中で、彼は次のように書いている。「人間においては、本能的な行動の根源、すなわち個人的経験以前に行動を決定する動因に加えて、快と不快もまた、個人的経験に依拠する動因として認められねばならない」(2, p. 149)。 この点を認めることは、快楽主義とホルミズムを結合することにほかならない。そして、このような結合において、ドリーヴァー博士は決して孤立してはおらず、フロイト教授およびその多くの弟子たちという良き仲間と共にある。

 

私は、ドリーヴァー博士の主張を、次のような意味で理解している。すなわち、人間はある種の行為から快や不快が生じることを学習し、その結果として不快を伴う行為を回避し、快を伴う行為を選好するようになる、ということである。そして、ここで問題となっているのが、目標達成のために採用される行為の様式、すなわち手段であるかぎりにおいては、これは確かに正しい主張である。すなわち、われわれの行動に伴って経験された過去の快や不快は記憶され、それが今後の快・不快の予期を規定する。そしてわれわれは、そのような予期に従って、行動の形式、すなわち目標への接近経路を選択する。しかし、「快・不快もまた動因である」とする記述(あるいはフロイトの「快楽原理」)には、それ以上の含意がある。すなわち、それは、快の欲求と不快の忌避が、ホルミックな衝動とは独立したかたちで目標への行動を駆動する動因であるとみなしている。この見解は、行動理論としての混合説であり、ホルミック理論に一定の快楽主義を付加するものである。では、これは妥当な主張だろうか? ホルミック理論はこのような添加物を必要とするのか? この点に関して、「痛み」については明確な答えがあるように思われる。すなわち、ある行動経路が痛みをもたらすと予期されるとき、それは当該経路を避けさせるようにはたらく。ただし、それは当該の目標自体を回避させるのではなく、むしろその目標に到達するための特定の行動様式から逸れさせるものである。そして、もし代替となる他の行動様式が見出されない場合には、最終的にその目標自体に向けた努力を断念することもありうる。しかしながら、「痛みの予期」それ自体は、行動の動因にはならない。適切な意味における「痛み」は、つねに欲求の挫折、すなわち衝動あるいは努力の失敗に伴う現象である。ゆえに、われわれが何も欲しないならば、すなわち目標に向けて努力しないならば、痛みを被ることもない。このことこそが、仏教の「離欲」による苦しみの解消という思想の根底にある大きな真理である。

 

言語の曖昧さに起因する事例が一つ存在する。それは一見すると例外的であるが、痛みという語が、欲求や努力の挫折・失敗から生じる感情的経験のみならず、ある特定の感覚の性質をも指して用いられるという点である。私たちは、痛覚を行動の刺激として捉え、また予期される痛覚への嫌悪を、そのような痛みの回避を目的とする活動の動機と見なす傾向がある。こうした混乱の源は重大なものである。しかしながら、この混乱は、身体のいかなる部位に由来するものであれ、痛覚は恐怖の特定の誘因であり、そして恐怖とは、あるいは恐怖には、強力なホルミック衝動が含まれている、という事実を認識することによってただちに解消される。

 

身体的な罰をほのめかすことが、嫌がる子どもや大人を行動へと駆り立てるためには、彼らの中に恐怖を喚起する程度にまで達していなければならない。このことはよく知られた事実である。それ以下の水準では、脅しは何の効果ももたらさない。この問題については多くの議論を重ねることもできるだろうが、この一事を挙げるだけで十分かもしれない。すなわち、身体的苦痛によって促される行動は、ホルミック衝動のうちでも最も根深く、最も強力なもののひとつである恐怖の衝動によって生じる行動なのである。

 

もし痛覚を伴う印象によって惹起されるホルミックな衝動が、すべての場合において恐怖本能の衝動でないとするならば、我々はこれらの事実を、かゆみを感じたときにその部位を掻こうとする本能と同様の、特定の単純な本能に根ざした回避あるいは退却のための特異的な衝動が存在すると仮定することによってのみ解釈できるだろう。

 

快楽の欲求が動機的な力であるという主張は、簡単には退けられない。というのも、この問題はより微妙な性質を帯びているからである。

 

まず注目すべきは、快楽とは抽象概念であり、具体的な実体や状況ではないという点である。快楽とは、活動に付随する感情である。したがって、われわれが追い求めているとされる快楽とは、実際には快楽を伴う活動形態である。そして、そのような活動はすべて、単なる快楽欲求とは異なる本性と起源をもつ欲求、すなわちホルミックな衝動(hormic impulse)によって支えられている。 もっとも単純で、快楽主義者によって自信をもって引用されるような例――食の快楽や性の快楽――ですら、それに該当する。人が食の快楽を追い求めていると言われるとき、実際には彼は、食物への食欲、すなわち食べるというホルミックな衝動をもっとも快く満たしてくれる形で満たそうとしており、過去の経験に照らしてその衝動を最も強く刺激し、満足させてくれると彼が知っている食物を選んでいるのである。しかし、その根底にある食欲であるホルミックな衝動がなければ、そこに快楽は生じない。 性の快楽を追い求めるとされる人の場合も同様である。彼は性衝動に動かされ、その衝動を最も効果的に刺激し、満たしてくれると経験上わかっている方法を選んでいるにすぎない。だが、ホルミックな衝動なしには、そこに享受すべき快楽は存在しないのである。

 

こうした事例は、人間が快楽を目的として追い求めているとされる数多の行動すべてに典型的に当てはまるように思われる。たとえば、名声や権力の快楽を追求する男のような複雑な例を考えてみよう。名声や権力を追い求める中で、多くの人々が享楽を避け、困難な日々を送りながら努力し続ける。しかし、そうした努力を突き動かし、支えているのは快楽の欲求ではなく、名声や権力への欲求である。もし彼のうちに、世間の注目を浴びたいという衝動や、他者に対して力を行使したいというホルミックな衝動がなければ、名声や権力の追求や達成に快楽を見出すこともなく、実際にそれらを追求することもないだろう。たとえば、生来控えめで謙虚な少年や男性に向かって、名声や権力の喜びをどれほど華々しく語ったとしても、その心に何ら反応を呼び起こすことはない。なぜなら、彼の性格にはそれに呼応する弦がそもそも備わっていないからである。一方で、自己主張の衝動が生来強い者においては、この衝動は容易に名声や権力への欲求となり、その欲求の駆動力のもとで、彼はあらゆる「快楽」を犠牲にするかもしれない。そして、名声が死後にしか訪れないと分かっていたとしても、あるいは権力を得ることが極めて重い責任と困難を伴うと知っていても、なお彼はそれを追い求めるだろう。こうしたホルミックな衝動が目標を定めるのであって、それがなければ、人はそれらの目標を追い求めることも、仮に神々からの贈り物として名声や権力が与えられたとしても、それに快楽を見出すこともない。これらはきわめて単純な真理であり、小説や現実の人生における無数の例によって証明されている。

 

もう一つ例を挙げてみよう。「復讐は甘美である」と言われ、人は復讐の快楽を求めるとされる。しかし、もし傷つけられた人物が温厚で謙虚な性格であり、その侮辱に対して相手を屈服させよう、仕返しをしよう、あるいは自分の力を誇示しようという激しい欲求が生じなかったとすれば、「復讐は甘美である」という言葉は彼にとって何の意味も持たないだろう。彼の中に復讐の衝動がなければ、傷を負わせた相手が損害を被る場面を想像しても、それが彼に快楽を与えることも、快楽を約束することもない。一方で、自尊心が強く自己主張の激しい人物が侮辱を受けた場合には、復讐衝動が彼の内に生まれ、その報復を計画する中で、敵に損害を与える未来を思い描いてほくそ笑むこともあるだろう。そして、もしその人物がとくに洗練されていて冷酷であれば、経験に照らして最も満足が得られ、最も快楽をもたらすと見なされる手段を選んで復讐を遂行しようとするかもしれない。快楽追求とされる行動の例をいくつも挙げる必要はない。どれも同じ原則に帰着するからである。すなわち、快楽それ自体が目的なのではなく、あるホルミックな衝動によって定められた目標を追い求め、その目標を達成しようとする過程や結果に付随して生じるのが快楽なのである。

 

美についても一言付け加えておくべきかもしれない。確かに、「人は美を求めるし、美しい対象をそれがもたらす快楽のために評価している」と主張されるかもしれない。だが、ここでも快楽主義的な美学は因果関係を逆転させてしまっている。これはすべての美学理論の根本に関わる問題である。ここでは簡潔に述べるにとどめるが、すなわち、ある対象が美しいのは、それが私たちに快い感覚の複合体を引き起こす能力をもつからではない。もしそうなら、パッチワークのキルトはターナーの風景画と同じくらい美しいということになってしまう。むしろ、美とは、その対象が私たちの内に多様な欲求的な傾向を喚起し、それらが精妙に均衡を保ちながら協働して、その対象の意味を豊かに、かつ十全に味わうことによって満足に至る、そうした働きを可能にする能力にこそあるのである。

 

ホルミック理論に対する第二の広く受け入れられている補足説は、R. S. ウッドワース(Woodworth)博士の小著『動的心理学』(32)に最もよく表れている説である。私はこの説については他の箇所で詳しく批判している(15)ため、ここでは簡潔に扱うこととする。

 

ウッドワースの主張は、先に引用したドリーヴァー博士の一節の言葉を借りて簡潔に述べることができる。すなわち、彼は一方で諸活動の「能力」と、他方で「それらの能力が意味をなさなくなるような、意識的衝動すなわちそれらの活動への原動力」とを区別している。

 

生得的な「能力」は、成長する子どもの中で非常に多様に分化し、数も増大していく。これらの能力は大まかに二つの大きな範疇に分類できる。すなわち、「思考(観念化)の能力」と「行為や熟練した運動の能力」である。さて、ウッドワースの主張は、あらゆるこの種の能力が本質的に単なる能力であるのみならず、同時にエネルギーの源泉であり、衝動的または動因的な力の源でもある、というものである。つまり、思考したり、ある種の行動をとったりする能力は、それ自体として、そのように思考し行動する傾向でもある、という含意がある。具体的に言えば。もし私がアルファベットを暗唱する能力を獲得したとすれば、私はアルファベットを繰り返す傾向もまた獲得したということになる。もし私が二次方程式を解く能力を身につけたなら、私はそれを解こうとする傾向も身につけたことになる。そしてこのように、われわれが獲得する無数の思考および行為の能力すべてについて、同様のことがいえるのである。

 

これは、かつての「観念は力である」という主知主義的原則の現代的な形態である。この説が長く支持されてきたという事実は、それにある種の魅力があることを示しているが、堅固な根拠は乏しい。ホルミック理論は、この説に真理があるとしても、それはごくわずかにすぎないと主張する。 ホルミック理論が投げかける問いはこうである。すなわち、もし人間が有する膨大な数の「能力」のそれぞれが、それ自体として活動しようとする傾向を内包しているのであれば、なぜ、ある一時点において実際に活動するのは、そのうちのごくわずかなものだけなのか? この問いに対してかつて提示された答えは、観念の連合の理論だった。しかしその欠陥と根本的な不十分さは、幾度となく明らかにされてきた。それにもかかわらず、この理論は、現代のこのような変形された姿において、再び姿を現している。 これに対してホルミック理論が示す答えは次の通りである。すなわち、能力とは、それ自体では潜在的な機構にすぎず、分化した構造をもつ機能単位である。そして、ホルミックな衝動は、こうした能力の間に張り巡らされた連合的なリンクを介して作用し、それらの自然な目標を追求する過程において、その目的にかなう能力を選び出して順次作動させるのである。 言い換えれば、能力や連合の機構全体は、そのときどきにおける支配的な志向性、すなわち意欲、欲求、そして有効な衝動によって統御されているのである。

 

それは、単純なものから複雑なものまでのさまざまな「能力」が、何年ものあいだ潜在したまま用いられずにいて、それらが発達した当初に仕えていた関心がふたたび呼び起こされることによって、環境の変化を契機に再び目覚め、その復活した関心のもとで再び活動を開始する、という事実を指し示している。たとえば、一人の人間が親となり、自分の子どもに向けて、かつて幼少期に覚えた子守唄やおとぎ話を再び語るときのように。

 

この点について、現在の精神分析的治療における「コンプレックス」の扱いが、ウッドワースの原理と調和しているのではないかという指摘があるかもしれない。すなわち、この特殊な場合に限っては、「観念」や「能力」がそれ自体として動因的な力、すなわち意欲的なエネルギーを有しているものとして正当に扱われているのではないか、というのである。

 

フロイト教授および他の精神分析家たちの言説の多くが、このような事実の解釈を容認しているかのように見えるのは確かである。しかし忘れてはならないのは、コンプレックスのもつエネルギーは、何らかの本能――通常は性本能――に由来するものとされており、それはすなわちリビドーであるという点である。これらの著者は、「情動がこもった観念」あるいは「情動エネルギーを帯びた観念」という語を用いて、あたかもそれぞれのコンプレックスが、一度限りのリビドーの付与によって恒常的な力を獲得しているかのように述べているが、しかし私見では、フロイトの一般的な立場に従えば、こうした「コンプレックス」は「能力」、すなわち構造的単位であって、それが性本能(あるいはその他の本能)との特定の関係性を獲得したがゆえに、その本能のリビドー、すなわちホルミックなエネルギーが容易にその構造に流れ込み、そこを経由して作用し、その結果として、当該コンプレックスの影響に起因するものと識別しうる表出がもたらされる、ということになるだろう。 恐怖コンプレックス、たとえば流水に対する恐怖症を考えてみよう。このような場合、流水の知覚が強烈な恐怖の発作を引き起こす、という特異な形成が獲得されており、それは長年にわたって、非常に長い間隔をおいても再び生起することがある。このような形成体、すなわちコンプレックスが、それ自体の内部に、恐怖のすべての発現に必要なエネルギーおよび構造的組織を含んでいると想定すべきだろうか。つまり、それぞれの恐怖コンプレックスが、それぞれに固有の恐怖反応の神経組織全体を複製していると考えるべきだろうか。おそらくそうではあるまい。 このような新たな形成体の本質は、流水を認知する知覚系と、恐怖の全体的装置とのあいだに成立した機能的な関係性にある。すなわち、その知覚が、恐怖システムを興奮させる複数の求心性経路のうちのひとつとして機能するようになったということである。 ここで留意すべきは、十分な実証的証拠によって、視床が、本能的興奮の中心、すなわち情動系の主要な座として特定されているという点である。神経学的な用語で言えば、流水の知覚は主として皮質における出来事である一方で、恐怖の表出は主として皮質下、すなわち視床における出来事である。そしてこのコンプレックスの神経学的基盤とは、両者、すなわち皮質における出来事と視床における出来事、およびそれぞれに関与する神経系の間に、特異的かつ獲得的な皮質‐視床間の結合が成立していることにほかならない。

 

ホルミズムの立場からすれば、ウッドワースの主張を裏づける明確な事例は見出されず、それに対して、「能力」それ自体にはいかなる駆動力も存在しないことを示す事例は数多く挙げることができる。したがって、証明責任はその立場に異を唱える者にあると彼は主張する。そして、すべての「能力」には駆動力がないという否定命題を決定的に証明することはできないにせよ、ホルミック理論にこのような補足を加えることに合理的な根拠は見出せないのである。さて、最後に簡潔に触れておくべきは、ごく最近になって登場した二つの理論である。これらは、ホルミック理論が補足を必要としていると主張し、自らがその補完を提供するものであると自負している。

 

まず取り上げておきたいのは、ルートヴィヒ・クラーゲス(Ludwig Klages)博士およびその優れた弟子ハンス・プリンツホルン(Hans Prinzhorn)博士による心理学である(この学説の理解は容易でないため、誤解があれば訂正を願いたい)。この立場によれば、ホルミック理論は動物の生命活動および人間の下位機能、すなわちすべての本能的・知覚的活動に関しては正しいとされる。しかし、人間の生命はさらに複雑なものであり、そこにはGeist(精神)とWille(意志)という、まったく異なる秩序に属する二つの要因が関与しているという。この「精神」と「意志」は、より高次の純粋に霊的な原理の二つの側面であり、それはホルミックな衝動とは異なるだけでなく、多くの点でそれと対立的であるとされる。すなわち、この霊的原理は、人間の本能的生命の基盤を撹乱し、ひいては破壊しかねない干渉的要素として働くのである。

 

私はこの学説について何を言ってよいか、よくわからない。 私には、それは容易には受け入れがたい根本的な二元論を含んでいるように思われる。それは、古い思考様式の名残を帯びており、たとえば「動物の本能」と「人間の理性」との古典的な対立、ヘーゲルにおける「対象化された精神」、さらにはデカルトの二元論──すなわち、動物の身体は機械であり、人間の場合にはそこに理性が介入することによって複雑化しているという考え──を想起させる。ただし、これらの著者たちが機械論的な生理学を全面的に否定している点は認めておきたい。 私は、クラーゲスとプリンツホルンが主張するように人間の生活を動物のそれとは大きく異なるものとしているGeist(精神)およびWille(意志)を、動物の生命活動には見られない何らかの神秘的で根本的に異質な原理とみなすべきではないと考える。むしろそれらは、ドイツ語で言うところの "objective Geist"(客観的精神)──すなわち、人類によって長い時間をかけて築かれた知的営為と文化的価値の体系に同一視されるべきである。この体系は文明ごとに伝統的遺産として形成され、美術や科学、建築、道具、文字・印刷物、そしてさまざまな持続的制度などの物質的な形に固定化されてきたものである。 各人は、自らを取り巻く社会的環境からこのような「対象化された精神」の大部分を吸収する。そしてまさにこの内面化された文化的伝統が、人間の生活におけるより高次の諸現象を生み出すのである。そうした現象を、クラーゲスの理論がGeistおよびWilleに帰しているのだと私は理解している。 このような解釈が不十分であると証明されない限り、クラーゲスとプリンツホルンの新たな二元論を受け入れる根拠は十分とは言えないように思われる。

 

最後に、ホルミック理論に対する興味深い補足として、オラフ・ステープルドン(Olaf Stapledon)氏による近著(30)を挙げておきたい。著者は、ホーミック理論を徹底した目的論的意味において受け入れることから出発している。しかし、そのうえで彼は次のように述べている。「人間の遺伝的素質には、自らの身体的性質や生物学的欲求を超えた傾向を発見し、欲求する能力が含まれているように思われる」そしてこの主張を明確に示す例として、他者への愛を挙げている。 ステープルドン氏は、私の立場、すなわち、性愛は性本能と親和本能の相互作用により駆動される感情であるという見解を批判して、次のように述べる。「この理論は、親的行動と愛とのあいだ、また優しさと愛とのあいだにある重要な違いを見落としている。実際、親はしばしば子どもを愛するが、同時に単に親らしい行動をとり、優しい感情を抱いているだけの場合もある。親が子に抱く愛は、親和的傾向に『由来している』と言えるかもしれない。すなわち、この傾向がまず子どもに注意を向けさせ、そのことによって初めて子どもを、傾向を備えた生きた中心として発見する可能性が開かれるのである。おそらく、すべての愛にはこのような本能的親和行動の要素があるだろう。しかし、真正な愛とは、優しさやすべての厳密な意味での本能的親和行動とはまったく異なるものである」 そして、ステープルドンは愛の本質について次のように述べている。「真正な愛とは、ある対象が有する欲求を、自分自身の私的な欲求と同じくらい直接的に引き受けることを伴う。[…] 単なる本能的行動とは、いわば主体自身の身体または人格に属する傾向や複合的傾向の欲求である。一方で真正な愛は、他者に属する傾向の欲求である […] もし愛が生じるなら、あるいはその限りで愛が生じるなら、そのとき他者は刺激としてではなく、独自の権利において欲求を要請する傾向の中心としてみなされるのである。」 このようにしてステープルドンは、人間には「自己を超えた傾向の欲求」という次元を見出し、ホルミック理論を自己中心的傾向を超えた愛の現象にまで拡張しうるものとして再解釈しようとしている。

 

ジャンヌ・ダルクの愛国的感情に言及して、ステープルドンは次のように述べている。「この感情は確かに彼女の人生において支配的な要因となった。そしてさらに重要なことに、たとえこの感情に本能的な源泉があったとしても、彼女の社会的環境の認知によって、それは単なる本能的衝動の混合とは本質的に異なる何かへと変化したのである。本能心理学の最大の弱点は、いかなる努力にもかかわらず、行動において環境が果たす役割を正当に評価できていない点にある。しかもこの失敗は、人間の行動において最も顕著である」そして彼はこう付け加える。「本能心理学者たちは、人間の行動に特有な本当に決定的な特徴を見落としてきたのである」では、その「特有な特徴」とは何なのか? これはホーミック理論への新たな挑戦であり、その正しさ自体を否定するのではないが、ある点までは妥当であるにしても、とりわけ人間に特有の行動に関する事実すべてを説明するには不十分であるとする主張なのである。

 

では、その「特有な特徴」とは何なのか?ここにホルミック理論に対する新たな挑戦がある。つまり、理論がある程度までは正しいことを認めつつも、すべての事実、特に人間に特有の行動に関する事実を説明するには十分ではない、というその妥当性への否定なのである。

 

この「特有な特徴」、すなわち先天的な衝動に由来しない意欲性の源とされるものは、次のように定義されている。「私がここで提案しているのは、意欲性の本質的な基盤は、何らかの有機体の傾向や単純な先天的心的構造がすべての意欲的行為の(直接的あるいは間接的な)源である、ということではなく、あらゆる傾向の認知が意欲的行為を引き起こす可能性をもつ、ということである。心的内容における傾向のいかなる要素も意欲性を示唆し、少なくとも萌芽的な意向性の根拠となる。もしその傾向が他の確立された意欲性目的と衝突しないのであれば、その実現は望まれることになる。」つまりステープルドンによれば、人間は「自身の心的内容に現れた傾向」を自発的に志向の対象としうる、という点において他の動物と本質的に異なる。これは、衝動的・本能的な欲求の発露にとどまらない、認知を契機とした志向性の存在を主張していることになる。

 

さて、もちろん、この説が真であるなら、それは非常に重要なことである。なぜなら、ある傾向を認識することによって、それに対応する志向、すなわちその実現を望む欲求が生じる、という考えに含まれるのは、ステープルドン氏によれば、すべての人間的・動物的傾向にとどまらず、すべての物理的傾向――例えば、水の流れが下方へ進もうとする傾向、石が地面に落ちようとする傾向、針が磁石に引き寄せられる傾向――までもが含まれるからである。彼はあらゆる傾向について、次のように主張している。「それを把握するというただその行為において、われわれはその実現を欲する」そしてまた、彼はこうもいう。「『未分化な自己がいかにして発達した自己へと拡張するのか?』と問うのならば、その答えをもっとも重要な仕方で拡張するには、客観的傾向のより広い領域を認知し、それらの傾向を志向的に支持することにある、ということになる。」なぜなら、「あらゆる客観的傾向は、心的内容に入り込み、それ自体として意志に影響を与えうる」からである。

 

私はこの理論を非常に興味深いものだと思う。しかし同時に、それを支える根拠として提示されているものには、まったく説得力を感じない。根拠は2つある。第一に、本能理論に関する不十分さ、第二に、いかなる傾向の認識も、それに対応または一致する志向を喚起する傾向がある、という主張である。第一の根拠については、私が偏見を持つ証人であることは否定できないが、それでも、ステープルドンが選んだ「愛」の例において、本能理論が不十分だとはどうしても認めることができない。ジャンヌ・ダルクの愛国的行動が「単なる本能的衝動の混合とは異なる」ものであったことは、私も認める。しかし、ステープルドンは「情念の理論」が含意するところを理解していないのではないかと私は思う。国家への愛、親が子に抱く愛、あるいは男女間の愛といった、発達した情念のはたらきにおいて、私たちが扱っているのは、単に原始的な衝動の混合や葛藤だけではない。そうした情念は、きわめて複雑な組織体であり、精緻化された認知的構造と本能的傾向とを含むものである。そしてそのはたらきは、「創発」および「ゲシュタルト」の原理によってのみ、適切に理解することができるのである。

 

さらに、ステープルドンは受動的共感および能動的共感の原理を考慮に入れていないように思われる。他者の中で作用している傾向を認知すると、観察者の中にもそれに対応する傾向が喚起される、あるいは活動状態に入る傾向があるというのは、私は事実だと思う。そして、非常に共感的な性格の人々においては、このような共感的誘導は強く、かつ頻繁に働く。こうした事実を十分に認識するならば、ステープルドンがホルミック理論の不十分さの例証として取り上げたような、愛といった複雑な情念の現れも十分に説明可能であると考えられる。彼の「本質的な新規性」、すなわち「たとえそれが単なる物理的傾向であっても、あらゆる傾向の認知が、それと同方向の志向を生み出す」という主張については、私はまったく納得していない。この主張には2つの部分があり、後者は前者に依拠している。そしてどちらも、私には非常に疑わしいように思われる。まず第一に、彼は「本能的性質に根ざした志向が、自らのうちに作用している能動的傾向を認知することによって生じる」と仮定している。これは、最も単純な衝動的行動を、二段階ないし三段階の出来事にしてしまっている。第一に、ある傾向が何らかの対象や状況の認知によって活動状態に入る。第二に、それが認知される。第三に、その認知が志向を生み出す。これはまさに神話ではないだろうか?われわれは、自分の内に働いている傾向を「認知し、それに肩入れする」ことで初めて努力するのだと言ってしまってよいのだろうか?むしろ真実なのは、ある対象や状況の認知によってまず傾向が活動し、その活動自体が、さらなる認知によって導かれながら進行する志向である、ということではないだろうか。本能的衝動は、しばしば認知されることなく、すなわち無意識的に働くというのは明らかである。そしていずれにしても、その働きは認知にとってきわめて曖昧であり、そのため多くの心理学者たちは、それをいかなる形でも認知することができず、あるいは認知したことがないために、こうした能動的傾向の経験の現実性そのものを否定しているのである。

 

人間生活における共感の原理が広く作用していることを認め、またこの原理によって、他者の欲求を認知すると自らの中にも類似した欲求、あるいは同じ目標への傾向、あるいは相手の努力に協力したりそれを促進したりしようとする傾向が喚起されることを認めるとしよう。それでも私は、物理的対象における傾向の認知が、私たちの中にそれと一致する傾向や志向を直接的に喚起するという考えには、どうしても十分な根拠を見いだすことができない。私としては、自然の物体や出来事を詩的想像力や原始的アニミズムの心でもって擬人化するときにのみ、われわれは共感あるいは敵意を感じるのだと主張したい。そして、全体として見れば、私たちは共感と同じくらい敵意をも抱きがちである。私は川の流れを眺めながら、詩人と共にこうつぶやくかもしれない。「最も疲れた川でさえ、どこかで海へとたどり着く」と。そして私は、その流れと共にすべるように進みたいという共感的な傾きを感じるかもしれない。だが同じように(とりわけミシシッピ川下流域に住む者であれば)、流れる川を敵対する力とみなし、それに抗おうとするかもしれないし、(もし私が倹約家のスコットランド人であれば)それをエネルギーの無駄としていら立ちを覚えるかもしれない。また、それが山あいの急流であれば、その流れをせき止めようという衝動にさえ駆られるかもしれない。水中にいるとき、私は流れに乗って泳ぐのも、逆流に逆らって進むのも等しく楽しむ用意がある。波に押し流されることもあれば、波に抗って自らを投じることもある。木の枝を優しく揺らし、顔をなでる風を見て、私はそれを友好的な力と感じ、「おお、西の荒風よ、秋の命の息吹よ」と叫ぶかもしれない。あるいは、「たそがれ時にふるえゆれる微風」を喜びをもって眺めるかもしれない。しかし、もし私が風を、木を引き裂き、船を打ち付け、波を荒れ狂わせる力として認知したならば、私はそれに激しく残酷な力として立ち向かうことになる。私は、引き裂かれまいと耐える木々、必死に進む船、あるいはあらゆる風に堂々と立ち向かう岩や堅固な建物に共感することになるだろう。ようするに、風に対する私の反応は、それがささやき、口笛を吹き、歌い、つぶやき、ため息をつき、うめき、ほえ、荒れ、叫び、怒り、引き裂き、嵐のように吹くように感じられるかどうかによって変化するのだ。こうした自然の力によって引き起こされる共感や敵意こそが、自然詩の命そのものである。だがそれらは、ステープルドン氏の主張を支持するものだとは、私にはどうしても思えない。私が思うに、原始的アニミズム傾向とは、「原始的ないし受動的共感」の拡張である。すなわち、我々が他の生き物において直接的または直感的に感じ取る情動的な動きを、無生物の自然にまで想像力によって拡張したものであって、スタプルトン氏が主張するような、「あらゆる物理的作用の認知に即座かつ根源的に反応する」ことの現れではない。ワーズワースのような穏やかで非常に共感的な性格の人々においては、この傾向は主に自然の力への共感というかたちで現れる。しかし、より好戦的な性格の人々においては、共感的志向よりもむしろ対立的な反応が生じがちであるように思われる。結局のところ、よくあることだが、倫理学者たちが自らの心理学を構築しようとするとき、ステープルドンによるホルミック心理学の補足も、観察可能な経験や活動の事実に基づいているというよりは、むしろ彼自身の倫理学理論の必要性によって規定されているように思われる。

 

 

ホルミック理論の利点

ホルミック理論が他のすべての理論に対して持つ一つの利点は、連続的な有機体進化――身体的形態と精神的機能の進化が互いに理解可能な関係をもって進行するという――の筋道を、知的に把握可能で、首尾一貫し、かつ擁護可能な物語として大まかに描き出すことを可能にする点である。そしてこれは、他のいかなる理論にも達成できないことである。この理論は、「純粋に物理的なもの」から経験がどのように生成されるのか、あるいは「純粋に機械的な出来事」から目的論的な活動がどのように生じるのか、といった不可能な課題に取り組もうとはしない。また、経験を単純な粒子や実体に分解し、それらから構成されるものとしてみなすという、不当な仮定を置くこともない。この理論は、経験、あるいは経験の各段階は、常にそれぞれが統一された全体であり、その中に区別可能ではあっても分離不可能な諸側面が存在するのだと主張する。そして、いかに曖昧で未分化であろうとも、最も単純な生物の生命においてすら、ある種の経験が含まれていると信じるに足る十分な理由があるとする。この理論は、有機的進化の物語を、構造・経験・行動のそれぞれにおける、最も初源的で単純な形態からの、進行的な分化と特殊化の過程として捉える。それぞれの種における「努力する能力」、すなわちホルミックな傾向は、「生きようとする」「活動しようとする」「探求しようとする」「同化しようとする」「構築しようとする」「エネルギーを発揮しようとする」「崩壊の力に抗おうとする」といった根源的衝動から分化してきたものとして理解される。こうした志向の分化は、目標を識別するための認知機能の並行的な分化を伴う。そしてさらに、その認知機能が手段を見極め、適応するためにいっそう分化することで、より遠く、より困難な目標を達成するための、より長く、より多様な行動連鎖が可能となる。この理論は、人間の種においてのみ、認知的分化が極度のレベルに達し、遠い目標に対する詳細な予見が可能となり、そうした目標に対する明確なホルミックな固着が生じて、最も厳密な意味で「目的的」と呼びうる行為が実現するのだと認識している。だが同時にこの理論は、たとえ高等動物であってもその予見はごく短期的であり、行動の次の一歩によって達成される結果を想定するにとどまり、おそらくそれすらも非常に曖昧なものであるとしても――それでもなお動物の認知的傾向はしばしば巧みに連結されており、その結果、ホルミックな衝動が一歩ずつ先へ先へと導かれていき、ついには生物学的な目標に到達し、行動の連鎖は満足のうちに終結する、ということを主張する。この理論は、人間の活動と経験の中に、動物に見られるあらゆる単純な行動や、それに含意される経験との並行関係を見出す。幼い乳児においては、認知能力がまだほとんど分化していない段階で、ごく短期的かつ曖昧な予見のもとに、ほとんど盲目的な努力が行われている兆候が見られる。そしてそこから、記憶の豊かさと多様性の成長に伴って、ますます長期的かつ適切な予見へと発達していく。この理論は、「記憶は予見のために存在し、予見は行動のために存在する」と強調する。そして、どちらも「常に何かそれ以上のもの――感覚に現れているものの背後や彼方にある、ホルミックな衝動を満たし、いっときそれを休止させるか、あるいは新たな感覚印象によって別の目標へと向け直させるような、何かさらなるもの」を求める「前方への衝動」としてのみ、妥当に理解されうるのだと主張する。

 

進化の記述的説明から、進化過程の力学的問題へと目を転じるならば、ホルミック理論はここでも、唯一、理解可能で首尾一貫した枠組みを提供しうる理論である。 この理論は、人間という存在が、無限に多様な状況のもとで絶えず努力し続けることによって、認知的能力と志向的能力の両方の分化を、遺伝的な慣性が通常到達する種としての共通の水準をはるかに超えて進めていく、という点に着目する。すなわち、人間は新たな弁別能力を発達させ、欲求や嫌悪の目標を変化させ、追求や退却のための行動連鎖を修正するようになる。 そしてこれらの修正は、成功には快が、失敗には苦が随伴することによる満足および不満足の経験に導かれながら達成されることに注目する。 この理論は、個体における適応の進化を、人類全体における適応のエピジェネシスを解釈するためのモデルとして見なす傾向がある。 こうした解釈はラマルク的な遺伝を受け入れることを含意する。だが、これを退けるための唯一真剣に取り得る根拠は、「生物学においては機械論的カテゴリーだけで十分である」という仮定に依拠している。そしてホルミック心理学はこの仮定を退けるため、この含意はこの理論にとって反論ではない。 むしろ、ホルミック理論は、ラマルク的遺伝の現実性を支持する証拠がますます増えてきていることを指摘するのである。

 

ホルミック理論は、動物進化の全段階を通じて、本能的傾向の分化こそが、各ステップにおける主要な、あるいは先導的な特徴であったと主張する。 身体器官が、新たな形態や機能的能力を獲得したにもかかわらず、それらがしばらくの間は機能せず、本能的傾向の何らかの一致した変異がそれらを活性化するまで待機していた、とは考えられない。 むしろ、こう考えるべきである。すなわち、あらゆる新たな形態や機能の発達において最初の一歩となったのは、そのような形態や機能の特性を有効に活かす行為に向けて、本能的性質が変化したということだった、と。 こうした変異が起こったならば、自然選択がその変異に適した身体的形態や機能の特性を、種内に発達させたということは十分に理解可能である。すなわち、そうした変化した、あるいは新たな本能的傾向に奉仕するのに最も適した身体的特性が進化したのだ。 このようにして、ホルミック理論は、ネオダーウィニズム理論における最大の困難を克服する。すなわち、新しい形態や機能が種に定着するためには、その変異が多くの個体に同時に、しかも生存上の価値をもたらすほど十分に広範に生じなければならない、という困難である。 例えば、ある種において環境条件が変化した場合(アザラシの肉食性陸上祖先において動物性食料が徐々に不足するなど)、その種のすべての個体に共通する知性によって、全員が獲物を新たな方法(すなわち泳いで潜る方法)で追い求めるようになる可能性がある。 そして、もしこの比較的新しい行動様式が固定され、この方法で獲物を確保することに繰り返し成功することで、その行動傾向がより強くなれば、自然選択はそれに一致するすべての身体的変異を維持し、反対方向の変異を排除することになるだろう。こうして、種の脚はヒレへと変化することになる。 これが「有機的選択」と呼ばれてきた原理であり、それはホルミックな努力の因果的効力と、ラマルク的遺伝の現実性を認めることでこそ、有効なものとなる。もしそれらの認識がなければ、この原理の価値は非常に疑わしいものとなってしまう。

 

このようにしてホルミック理論は、動物進化に関する実行可能な理論を成立させる。すなわち、その理論のもとでは、「心」――あるいは認知・志向といった精神機能――こそが、有機体および種の成長点である。そしてその理論においては、有機体の知的な努力こそが、進化を生み出す創造的活動として位置づけられる。 進化の神秘を、「オルソジェネシス(orthogenesis)」や「エラン・ヴィタール(élan vital)」、「生命のモメンタム(momentum of life)」といった、あまりにも曖昧な語によって説明しようとする理論よりも、こうした理論の方がはるかに受け入れやすいものではないだろうか。

 

ホルミック理論は、主知主義およびそれに由来するすべての誤謬に根本的に対立する立場を取っている。こうした誤謬こそが、心理学、さらにはヨーロッパ文化全般にとって長きにわたる最大の災厄であった。ホルミック理論は、純粋な認知的経験についての分析的記述から出発し、それと身体的活動との間に理解可能な機能的関係を見いだせずに途方に暮れる、といったことはしない。この理論は、すべての活動が欲求的であるという性質を十全に認識し、認知的能力を常に欲求の「奉仕者」かつ「導き手」として捉える。したがってこの理論は本質的に動的であり、人間生活に関わる諸科学や実践的問題に適用するのにきわめて適した心理学へとつながる。たとえば、教育・衛生・治療・社会的活動・宗教・神話・美学・経済・政治、その他あらゆる領域における問題に適用可能なのである。

 

あらゆる心理学の中で、ホルミック心理学こそが、哲学にとって本質的に必要な心理学的基盤を提供できる唯一のものである。哲学は、本来、価値に関わる営みであり、評価、価値の基準、価値の尺度に関心をもつ学問である。哲学は、人間が追い求める目標や理想、人格のかたちや行動様式の相対的な価値を確立しようとする。そうしたすべての価値判断は人間の本性に対して相対的なものである。つまり、人間のあるがまま、あるいはなりうる存在としての姿を参照せずに、根本的に異なる構成を持った何らかの存在を基準として価値の尺度を立てても、それは人間にとってほとんど価値を持たないのは明らかである。したがって、哲学が「真の価値尺度」に向かって前進できるのは、「人間の本性」およびその現実性と潜在性についての真の記述に基づく場合に限られる。したがって、ホルミック心理学こそが哲学に必要な心理学である、という主張は、それが真の心理学であるという主張の繰り返しに過ぎないようにも見えるかもしれない。だが、それは単なる繰り返しではない。というのも、哲学の歴史を一瞥するだけでも、ホルミック心理学だけが、哲学が実際に使うことのできる心理学であり、価値尺度を構築できる唯一の心理学であることがわかるからである。他の理論では、少しでも精査すればすぐに瓦解してしまう。

 

主知主義的哲学は、観念に関する主知主義的心理学を採用し、すべての価値の源泉および基準を、自らの体系における論理的一貫性の中に見出そうとする。だが、人々が現在抱えている苦難に耐え、ましてそれに対して英雄的に闘おうとするとき、その動機が「自分が完全に論理的な体系の一部であると知っていることによる満足感」だなどということは、明らかにありえないし、今後もそうなることはないだろう。 機械論的心理学は、いかなる価値も認めることができず、また価値判断の過程を説明することもできない。せいぜいできるのは、(B・ラッセルのエッセイ『自由人の礼拝』に見られるように)「意味も価値も持たず、人間がそれを変えることもできない宇宙」に向かって、虚しく挑戦的な言葉を投げつけることくらいである。

 

快楽主義的心理学は、 快楽主義的哲学としか結びつくことができない。 そしてその哲学は、J・S・ミルのように、「高次の快と低次の快のあいだには本質的な価値の違いがある」と、明晰さと論理性に反して仮定しない限り、結局のところ「豚の餌桶の哲学」でしかなくなってしまう。

 

ホルミック心理学だけが、人間の価値判断についての理解可能で首尾一貫した説明を提供し、同時に哲学に対しても、以下のような事柄がその基本的前提と矛盾せずに正しく位置づけられるような、科学的な基盤を与えるのである。すなわち――人間の理性的意志の自由、現実的・理想的の両面における「真の新しさ」の創造能力、そして個人と人類の両方における理想に向かう自己発展の力、といったものすべてが、ホルミック理論の枠内で一貫して意味を持つ。ゆえに、ホルミック心理学こそが、向上主義(meliorism)の哲学にとって唯一の土台となりうるのである。

 

ホルミック理論は、「認知」と「志向」がすべての精神生活において切り離しがたい側面であるという事実を堅持するがゆえに、認知的生活の体系――すなわち、知性の構造と機能に関する設計図――を単独で精緻化し、「性格」に関する説明は別の分野(それがたとえエソロジーと呼ばれようが、プラクシオロジー倫理学と呼ばれようが)に任せる、といったことはしない。なぜならこの理論は、知性と性格というものが、構造として、ちょうど認知と志向の機能がそうであるように、切り離せないものであると理解しているからである。つまりそれらは、人格という構造の中で、抽象的に区別しうるにすぎない、二つの側面に他ならないのだ。

 

内省とは、膨大かつ複雑な心身相互作用の結果として精緻化された産物のみを、言語的報告のかたちで把握し、固定することができるにすぎない。ホルミック理論はこの事実を認めている。したがってそれは、「意識」と「無意識」といったラベルのもとに、二つの心や、あるいは一つの心(または人格)の中の二つの部分を対置する、というよくある誤りを避ける。そしてまた、そうした誤りに基づく神秘化に対して一貫して抗する姿勢をとる。この神秘化は、「神秘的で奇妙なもの」を好む大衆の趣味には強く訴えるかもしれないが、本質的に誤解を招くものであると、ホルミック理論は断固として批判するのである。

 

ホルミック理論は、ホルミック衝動の基本的な性質とは、それが自然な目標に向かって働き、そしてその目標が達成されたときに、あるいはその程度に応じてのみ、終結し、機能停止するものであることを認める。 つまり、他の衝動との葛藤がない場合、その衝動は長かれ短かれ一連の意識的活動(すなわち、内省によってある程度まで観察・報告しうる活動)のうちにおいて、目標に向かって進行する傾向をもつ。 だが、そのような衝動は、他の衝動と衝突することによって、意識的活動の場から排除されることがある。そしてその場合、その衝動は必ずしも(あるいはおそらく一切)停止されたり、終結したり、ゼロに戻されたりするわけではない。 むしろ、いかなる衝動も、その目標が達成される前に意識の場から追いやられたならば、その後も地下的に、すなわち「潜在的に」作用し続けるのである。そして、そうした状態で働く衝動は、意識の場や行動において部分的な表出を得ることがあり、その表出はしばしば、容易には解釈しがたいような、意識的思考や身体行動の歪んだかたちで現れる。 こうした「潜在的活動」は、(厳密な意味での「無意識的活動」とまでは言えないにせよ、それが内省によって観察・報告される可能性からは遠く隔たっているにせよ)人間の複雑な生活における正常な特徴である。なぜなら、人間においては、あまりに多くの自然な衝動が、社会的要請によって喚起された他の衝動によって抑制・抑圧されているからである。 そして、まさにこのようにして、現在の実験心理学者たちが注目している現象――「持続作用(perseveration)」や「第二機能(secondary function)」という名のもとに分類されているもの――を、また、夢の生活におけるさまざまな病的・準病的な現象、たとえば幻覚、妄想、強迫、観念固着、さらには機能的障害における無数の身体的・精神的症状のすべてを、われわれは理解すべきなのである。

 

ホルミック理論の原理は、人間の意識的生活から下方へと拡張可能であり、それは動物におけるより明示的な目的論的行為に適用できるだけでなく、生理学の問題、すなわちあらゆる組織の機能の調整と相互作用の問題にまで及ぶ。このようにしてホルミック理論は、真に生理学的な心理学であり、すなわち生理学の知見を吸収し応用できる心理学であると同時に、生理学の諸問題に光を当てることができる心理学でもある。そしてこの理論は、有機体に関する包括的な科学へと導くことができる。その科学においては、有機体はもはや「意識的過程になんらかの神秘的な仕方で後づけされた機械」としてではなく、すべての部分が他のすべての部分および全体と相互作用するような、真に有機的な統一体として捉えられる。その「全体」とは、単なる部分の総和ではなく、すべての部分の体系的かつ相互的な相互作用によって維持される統合的な統一体であり、いわば下位単位から成るコロニー的なシステムである。そしてその統一性は、全体に適切に従属しつつ各構成要素が調和的にホルミック活動を行うことによって保たれているのである。

 

ホルミック心理学には、「宇宙の偉大な未解決の謎」に対する答えを知っているふりをしないという利点がある。たとえば、有機的領域と無機的領域との関係、この世界における生命の起源または出現、宇宙における個人および人類全体の位置づけと運命、あるいは現代科学がまだ認識していない人類の能力や潜在性の可能性といった問題の解決を、ホルミック理論は将来に委ねている。ようするに、ホルミック心理学は特定のコスモロジーを前提としないのである。それは経験的証拠と、あらゆる正当な推論を歓迎するのである。

 

心理学におけるあらゆる個別の問題に対して、この理論が具体的に適用された際に示す多くの利点を、ここで詳細に述べることは不可能である。ここでは、次の点を指摘するだけにとどめたい。すなわち、他の多くの心理学が、「反射」「感覚」「観念」「概念」「感情」などの抽象によって構成された人工的な実体を出発点とし、そうしたものが連合・融合・再生などの法則に従って機械的に相互作用するという前提から出発するのに対して、ホルミック心理学は、すべての経験を「ホルミック・選択的・目的論的な全体的活動」の表現とみなす。したがってこの理論においては、われわれの活動が目標を選び、それを目指すという性質をもっていること――すなわち、「欲求」「動機づけ」「注意」「意志」などの語によって示される事実――を、いやいやながら、あるいは不十分なかたちで、機械論的システムに無理やり付け足すといった態度は一切とらない。なぜなら、それらの側面こそが根本的なものであると、ホルミック理論は明確に認めているからである。そしてこの理論は、「欲求」「注意」「合理的な意志」の起源を、原初的な有機体におけるホルミック衝動の中にその萌芽として見出し、そこからそれらの発展をたどろうとするのである。

 

ホルミック理論は、成人の組織化された心の全体を、より多く、より豊かな生命へと向かうホルミック衝動に奉仕するかたちで精緻化された構造として理解することによって、完全に体系的で自己完結的な心理学を構想している。 この極めて複雑な構造のあらゆる部分は、ホルミックな衝動を分化させ、それを自然な目標に向けてますます効果的に導くために機能しているものと見なされる。 その目標とは、無限に複雑な世界の中にあって、いくつもの経路が存在しうるようなものであり、 そのような多様な可能性のなかから、有機体は、感覚的把握の装置の豊かさ、多様な関係性を統合的に組み合わせる統合力(synthetic integration)の広がり、記憶の効果的な構成、弁別的判断のネットワーク、あるいは感覚提示や記憶がもたらす多数の可能性のなかから、目的に最も関係するものをつかみ取る賢明さのような条件に応じて賢明に選択するのである。

 

ホルミック心理学の利点がとりわけ明確に現れているのは、精神構造の感情的・欲求的側面、すなわち、心の全体の中における比較的自立した一部であり、極めて重要であるにもかかわらず、主知主義的・機械論的な諸心理学にとってはまったく解明されていない「閉ざされた書物」のような側面を、理解可能なかたちで説明できるという点である。 この側面について、そうした心理学はしばしば無視するか、あるいはせいぜい「態度」や「セット」といった言葉で極めて不十分に取り扱うにとどまっている。 精神分析学派は、これに対して多少は真剣に取り組み、「無意識」という包括的な語で、やや丁寧に、そして「コンプレックス」や「感情的な色彩を帯びた観念」といった用語で、やや分析的に扱おうとはしている。 しかしながら、その扱いは依然として非常に混乱しており、また不十分であり、この心の側面において現れる葛藤や障害の兆候にほぼ限定されたかたちでしか取り扱われていない。 これに対してホルミック心理学は、こうした感情的・欲求的構成の解明は、理論的にも知的構造や機能の解明と同等に重要であり、実践的にはそれ以上に重要であると主張する。そしてそれは、心理学の本来的な課題の一部であって、倫理学、性格論学、行動学、行為論(praxiology)などといった他の学問分野に委ねられるべきものではないと断言する。 というのも、ホルミック心理学は、知的な過程というものは、その奉仕者である感情的過程の組織と働きに関する理解なしには、そもそも理解することができないと考えているからである。

 

心理学におけるこの問題領域の解明に向けて、ホルミック心理学が提示するのが「情念の理論」である。情念とは、発達した心における真の機能的システムであり、それが個体の成長過程において発達していくことによって、生得的なホルミックな衝動はさらに分化され、多数の新しく、専門化された目標へと方向づけられていく。この過程は、生得的傾向の性質を、曖昧ながらも深く変容させる。というのも、「情念」というこれらの新たに個別に獲得されたシステムにおいて、生得的傾向が多様な協応関係に組み込まれ、それによって新たな力動的統合体を形成するからである。その過程では、個々の衝動の独立性は失われ、そこからこそ、まったく新しい欲求、感情、行為の形態が生み出されるのである。

 

さらにホルミック心理学は、これらの基本的な機能的システム、すなわち情念が、最終的には性格という一つの包括的なシステムへと組織化されていく傾向をもつことを明らかにしようとする。 そしてこの性格が調和的に統合されている場合には、いかに強力であっても粗野な本能的衝動の促しをすべて乗り越えることができ、あらゆる局面においてそれらを抑制し、方向転換させ、あるいは昇華させることが可能になる。 このようにして、知的構造との密接な協働のもとで、人格の最高の現れである「理性的意志」が生み出されるのである。

 

最後に、ホルミック理論は、新しい心理学諸学派において健全かつ有益なものすべてを歓迎し、かつそれを取り入れる能力を備えていることを強調しておきたい。 アメリカの大学で現在主流となっているさまざまな心理学とは異なり、ホルミック心理学は、そうした新しい動向に対して無関心であったり、あるいは明確に敵対的であったりするようなことはない。それらの中に含まれている価値あるものを取り込むことができないがゆえに、そうした態度を取るということはないのである。 むしろホルミック心理学は、以下のような広範な学派や理論の中に真実と価値の一端を見出している。その中には、フロイトユングアドラー諸派精神分析学説、ゲシュタルト心理学創発の理論、精神科学派(Geisteswissenschaftler)による了解心理学(verstehende Psychologie)、シュプランガー、エリスマン、ヤスパースの教説、シュテルンの個人心理学、クラーゲスとプリンツホルンによる性格学(Charakterologie)、 ビューラー夫妻による児童研究、スピアマンの相関的研究とその理論的結論、そしてクルト・レヴィン博士が発展させつつある独自の力動的解釈の体系も含まれる。このような広範な受容力と、多様な心理学的思考体系から新しい真理を統合的に吸収できる力こそが、おそらくホルミック心理学の根本的な正しさを証明する最良の証拠である。

 

 

ホルミック心理学の起源

アリストテレスの心理学は、徹底して目的論的である。しかしそれが純粋にホルミックなものであったとまでは、さすがに主張できないだろう。彼の時代にはまだ、機械論的説明と目的論的説明の区別や、快楽主義的説明とホルミック的説明の区別が明確に定義されてはいなかった。そして、多くの後代の著述家たちと同様、ホルミック心理学に近いものを持っていた彼の理論にも、快楽主義の影響が入り込んでいた。とはいえ、少なくともこういうことはできるだろう。すなわち、ギリシア思想の中にはすでに、世界についての対照的な二つの見方――「アポロン的(Apollinian)」なものと「ディオニュソス的(Dionysian)」なもの――が確立されており、アリストテレスは明らかにディオニュソス的な側に立っていた、と。

 

アポロ的世界観(Apollinian view)は、ヨーロッパにおける主知主義の母体であり、 その中心的な主張は、ソクラテスによる「徳は知識である」という同一視にあった。 この世界観は、外見上は大きく異なって見えるものの、本質的には連携している二つの体系――すなわち、絶対的観念論(absolute idealism)とニュートン的機械論(Newtonian mechanism)を生み出してきた。 そして、デカルトやロック以降の近代心理学は、まさにこの二つの体系の主たる影響を色濃く反映してきたのである。 そこでは、「観念」と、「運動する原子(あるいは質点)」という基本的な構成単位が重視されていた。

 

アポロン的世界観(Apollinian view)の不十分さ――すなわち、「完全な可知性」や「すべての出来事を第一原理や明晰な公準から演繹的に説明できる」とするその理想の誤導的な性格――は、今や明らかとなっている。 そのことは、純粋観念論の崩壊や、厳密な機械論的物理学の破綻において示されたのみならず、アポロン的理想を自然の事実と調和させようとして何世紀にもわたって追求された努力の集大成であるところの、「心身平行論」の教説においても、同様に明瞭に示されている。 この心身平行論は、満足のいかないもの、かつ、明らかに間に合わせのものである。それは理解不可能であり、自然に対するより深い理解を阻む障害でしかなかった。 それにもかかわらず、この教説は、アポロン的伝統に支配されていた19世紀の終わり頃には、なんらかの形で非常に広く受け入れられていた。 しかし今では、それに代わるものを何も持たない人々ですら、ほぼ例外なく放棄している。

 

ディオニュソス的伝統は、主として学問機関の外部で生き続けてきた。 ヨーロッパ思想は、中世の終わりまでアリストテレスによって支配されていたにもかかわらず、行為よりも理性に関心を持つ傾向が強く、そのために次第にアポロン的伝統に屈していった。 そして、ルネサンス期以降に主知主義が勝利を収めたことにより、ディオニュソス的伝統はもはや詩人たちの中にしか表現されなくなり、さらには18世紀の「理性の時代(the Age of Reason)」においては、詩の中からさえほとんど排除されかけるに至った。 19世紀初頭になると、この伝統は、自然詩人たちの作品や、オーケン(Oken)、シェリング(Schelling)、フィヒテ(Fichte)といった哲学者たちの著作において再び息を吹き返すこととなる。 さらに、スコットランド学派の精神哲学(mental philosophy)においては、ホッチェソン(Hutcheson)やダグラス・スチュワート(Dugald Stewart)の著作を通じて、心理学の領域においてもこの伝統が明確に表現されはじめた。 しかしこの流れは、ベイン(Bain)がイギリス連合学派の主知主義に降伏したことによって、ほとんど壊滅的に打ち消されてしまった。

 

ヨーロッパ大陸では、ショーペンハウアーが「意志の優位(primacy of will)」という学説によってこの伝統を復興した。そしてその弟子であるフォン・ハルトマン(von Hartmann)は、おそらく純粋にホルミックな基盤に立って心理学を書いた最初の人物といえるだろう。ただし、彼の「無意識」に関する過度な思弁が、その試みを損なってしまった。 ニーチェの心理学への断片的な貢献も、完全にホルミック的である。また、ベルクソンの曖昧な「エラン・ヴィタール(élan vital)」の理論も、結局のところこの分類に入れるほかない。フロイトの心理学も、本来であれば十分にホルミックなものであったはずだが、彼の初期の著作では「快原則(pleasure principle)」という形で快楽主義的誤謬を含んでしまったために、それを損なってしまった。 私の著作『社会心理学序説』は、私の知るかぎりでは、ホルミック原理に厳密に則ったかたちで心理学の基礎を構築しようとした最初の試みである。そして、私の二つの『アウトライン』(16, 17) は、ホルミックな基盤のうえに「正常心理学と異常心理学を含む全体的な心理学」を描き出そうとした最初の試みにあたる。 ただし不運だったのは、この『社会心理学』の刊行の直後に、私の著作『身体と心』(14) が出版されたことである。この本において私がアニミズムを擁護したことによって、「ホルミズム(hormism)はアニミズムと運命をともにする立場なのだ」という印象が多くの読者のあいだに生まれてしまった。私は、この印象こそが、アメリカの学界において『社会心理学』の影響力が衰えた大きな原因の一つであると考えている。 だが、この二つの理論(ホルミズムとアニミズム)は、必ずしも不可分ではない。そのことは、教育学・数学・哲学・心理学のすべてにおいて卓越した人物であり、最も賢明な教育学教授と評されるP.T. ナン卿(Sir P. T. Nunn)の例によって明らかである。 ナンは、自らの教育理論を徹底的にホルミックな心理学に基づいて構築しているが、アニミズムは明確に退けている。彼の著作『教育––そのデータと第一原理』(26) においては、ホルミック理論に関する最も明晰で説得力のある説明が与えられている。 そしてこの中で彼は、おそらく「ホルメー(horme)」および「ホルミック(hormic)」という用語を本稿での意味で明示的に用いる最初の提案を行っている。

 

したがって、この論考の結びとしては、ナン博士(Dr. Nunn)の著作からの引用を掲げるのがふさわしいだろう。それらの引用は、「ホルメー(horme)」および「ホルミック(hormic)」という用語の意味と、そこから導かれる理論的含意を、さらに明確にし、定着させる助けとなるかもしれない。

 

ナン博士は次のように書いている。「私たちは名前を必要としている。それは、絶え間ない調整と冒険によって編まれる生命の織物に表現されている基本的性質に対する名前である。 私たちは、意識的活動のなかで、それを “駆動力”(drive)、 “衝動”(urge)、あるいは “終点に向かう傾向への感触”として直接に知覚する。 心理学者たちはこれを「欲求(conation)」と呼び、こうした駆動力に支配され、そのことによって多様性のうちに統一性を持つような意識的活動の連なりを「欲求過程(conative process)」と呼んでいる」 そして、彼は行動として表現されるさまざまな無意識的活動の事例に言及しながら、彼は続けてこうも書いている。 「これらの目的的過程のいずれも、欲求的と呼ぶことはできない。なぜなら、それらは意識の水準よりも低く、場合によってははるかに低いところで生じているからである。 しかし、もし超人的な観察者がいて、私たちが物理的現象を見るように、私たちの心的なふるまいを直接に観察できるとしたら、彼にはそれらすべてが「同一の種類の事例」として見えるであろう。細部には違いがあっても、全体の構造においては一致しているのだ。 言い換えれば、それらはすべて、内部に「駆動力」をもつという点で、純粋な機械的過程とは区別され、また、駆動力が働く素材と、指向される目標の性質の違いによって互いに区別されるのである。 このような「駆動」あるいは「衝動」という要素に、たとえそれが人間や高等動物の意識的生活に現れるものであれ、あるいは身体の無意識的活動や下等動物の(おそらく)無意識的ふるまいの中に現れるものであれ、私たちは共通して「ホルメー(horme)」という名前を与えることを提案する。 この提案にしたがえば、生物体におけるすべての目的的過程は「ホルミック過程(hormic processes)」であり、そのうち意識的なものだけが「欲求過程」という下位クラスに属することになる。[...] ホルメーとは、死物と生物とを分かつ活動の根本であり、したがって、動物がその世界に対して示す、あの特有の“独立性の態度”の基盤なのである。」

この立派な見解を受け入れたうえで、私はひとつだけコメントを加えたい。私の近著『現代唯物論創発的進化』において、私はこう主張した。すなわち、私たちが潜在的なホルミック過程(Dr. Nunnもそれを目的的、あるいは目的論的なものとみなしている)を理解しようとするならば――たとえそれがどれほど漠然としたものであっても――それらを完全に盲目的なものとみなすのではなく、最も明瞭な目的的活動に本質的に含まれている予見の要素が、どれほど微かで短距離のものであれ、そこにも関与していると考えなければならない、と。したがって、私たちは、あらゆるホルミック過程を、私たちの心的活動と根本的に同質のものとみなす必要がある。たとえこの解釈が、生物学と物理学の進展によって最終的に判断されるべき「作業仮説」としての暫定的な二元論を伴うことになったとしても、である。

*1:ただし、 "behaviour" ではなくて "conduct"。本の中では "behavior" も使われているけど。

【読書感想文】「事実」の交差点——科学的対話が生まれる文脈を探して

[...] 結局、AIのような技術を使おうとする側も、自分が依拠する価値基準に意識的ならなくてはいけないということだ。そのためには、客観視するために数値化された「事実」をもう一度ことばに解体し、自分の置かれたコンテクストに沿って理解し直さないといけない。そこで必要になるのは、豊かな歴史的・文化的造詣に裏打ちされた深い思考なのだろう(本書 p. 232)

 

『「事実」の交差点』は京都大学白眉研究所に所属する4人とフランスの社会科学高等研究院のジャン=フレデリック・ショーブさん、人間環境大学で「系統樹思考」で有名な三中信宏さんの6人の著者で構成された「対話的論集」だ。

 

書籍の情報はこちら。

www.hanmoto.com

Amazonリンクはここ。発売は今月3/31のようだ。

 

本書は、著者のひとりの佐藤駿さんからご恵送いただいた。佐藤さん、ナカニシヤ出版さん、ありがとう!先週ちょうど、出版記念イベントがあったので、その記憶が残っているうちに、本書の感想を述べようと思う*1

 

まずは俺と佐藤さんの関係から。佐藤さんはシクリッドというカワスズメ科の魚類を主に研究している人で、動物研究をやってるんだから俺とは広義の同業者だ。だけど、知り合ったのは意外と最近で、去年の生態学会のシンポジウム「再考・認知生態学」に一緒に登壇したときのことだ。でも、彼はもはや俺の盟友みたいなもので、アフリカ帰りに数ヶ月ぶりに顔を合わせても「あ、久しぶりです。ところで、最近気になっていることがあるんですけど」と、出会って3秒で学問的な話が始まる。一方、俺はそんな彼にちょっとバツが悪そうに「あ、まずはトイレ行っていいですか?」と返す。そんな間柄だ。ちなみに他の著者の人たちとは、件のシンポジウムの懇親会で話す機会を得ることができたが、全員が初対面だった。

 

研究者であれば、専門分野と自称するものが1つや2つあるものだ。研究者が研究発表で公開するものは、数値に落とされた知見だけではない。それは科学者であれば論文の "Discussion" で軽く触れる推測にすぎないものから、一定の注目を浴びる仮説、そして分野内で受け入れられている「事実」に至るまで、多くの様態をとる。さて、事実はいかにして事実になるのか? 改めて考えみると、これは意外と自明なことではない。その問題意識のもと、本書は白眉研究所の研究者が集まり、年間を通じて議論する中で、生まれたようだ。

 

まず、この本の著者陣を見ると、著者の専門分野の多様さにまず目を引かれることだろう。全員の名前と肩書きを並べると、歴史学の小俣ラポー日登美さんとジャン=フレデリック・ショーブさん、行動生態学の佐藤駿さん、生物進化・生物統計の三中信宏さん、地球惑星科学の松本徹さん、情報科学の包含さんである。本書のきっかけは、京都大学の白眉センターのポスター発表であったらしい。本書にも書かれているが、編著者の小俣さんがポスターという形式で成果を発表させられることに疑義をもったところから始まったらしい。ポスター発表は「ことば」そのものが研究成果と不可分な学問にとって不合理な形式である、と。もう始まりからして面白いんだが、結果的にこの著者陣で年間を通じて議論する中で、本書は生まれたようだ。

 

果たしてこのメンツで、一貫性のある本ができるものなのか?単なる各論の寄せ集めの雑多な論文集に過ぎないのではないか?そう訝しむ人もいるかもしれない。安心してほしい。ここまで多様な専門家が集まり、各論では一見関連のない議論が展開されつつも、常に自分たちの分野が生み出す「科学的知見」がいかにして事実として受け入れられるようになるのかを見つめ直す視線の下で描かれている。つまり、本書の背後には各分野の学術的プロセスから産出される事実のあり方を相対視することというメッセージが、常に基底に流れている。それは、ディシプリンの大きく違う学問領域を突き合わせるという、「比較しえぬものを比較する」作業の中でこそ生まれ、学術成果が生まれる文脈を見つめ直す契機になった。これは、読者にとってもそうなるだろう。本書はだからこそ「対話的論集」と銘打たれている。

 

全体の流れを俺なりに再構成してみよう。

小俣さんの序章では、諸学で明かされる「事実」がいかに齟齬を孕み、研究者間のディスコミュニケーションを生み出しているのか、科学史の重要事項・事件とともに紹介される。それを引き受けるように、第1章では、事実の錯綜の最たるケースである「歴史を語ること」について、当事者の特権性に対するショーブさんの警句が続く。第2章では、まさに歴史学の場で起きたディスコミュニケーションの例として、小俣さんの聖骸布*2にまつわる科学研究と、奇跡が奇跡として受け入れられる顛末との交錯が語られる。「トリノの聖骸布がイエス本人のものではない」という科学的事実と「奇跡が奇跡となった」という1つの事実の間の緊張関係がそこにはある。「この聖骸布はイエスが被ったものであるか?」と「この聖骸布は "本物" であるか」は、異なる問いであるということだ。

 

第3章は佐藤さんが描く、そもそも何が事実であるかすら判然ではない「動物のこころ」の章である。ここでもまた、何が「こころ」であるが歴史的な経緯と不可分であるがゆえに、そこから生み出される事実もその影響下から逃れることができない。こういう科学の背景には、どういう思考が介在しているのだろうか? 第4章ではそれに応えるように、「歴史と科学をつなぐ」思考として、アブダクションの推論に関する科学哲学が三中さんにより展開される。アブダクションは、現在のデータともっとも合う仮説を選び取る推論の様式である。その推論は、どこまで信じてよいのだろう? 三中さんは統計的思考やヴィジュアル・リテラシーの重要性を説く。

 

ヴィジュアル・リテラシーは物事を「見る」ことの能力だ。第5章の地球惑星科学では、松本さんがその「見る」ことに対し、自身の研究モチーフに反省的な視線を向ける。小惑星リュウグウから持ち帰った砂の微細構造に名前をつけることに悪戦苦闘する姿は、読んでいて楽しい。そういう楽しさはさておき、何を「見るべきか」の取捨選択には、背後にある価値判断の混入を免れることができない。惑星地球科学の場合、生命の起源につながる化学反応の痕跡の発見が何よりも重大なものとされる。が、それはある種の人間中心・地球中心の態度を孕んでいる。包さんの書く第6章では、そういう価値判断が深刻な影響を社会に及ぼす例として、近年のAI技術の発達を挙げられる。この手の話で有名な例だと、犯罪者の予測モデルが人種差別的であることが糾弾されたことだ(p. 213)。そういう現実を踏まえ、AI技術の生み出す事実の特権性に対し、包さんは人間側の価値との対話を諦めないことを説いてくれる。

 

終章で歴史学者の小俣さんに再びバトンが返ってくる。日本において人文学と科学がいかに隔たっていったのか、この国の学術政策も踏まえた歴史的経緯が述べられている。その上で、1-6章の各論を拾いつつ、もはや比較が不可能な細分化へと進んできた諸学を改めて突き合わせて出てくる「事実」の産出の文脈を押さえようと試みる。

 

こういう越境的な対話はどんな帰結を産むだろうか? 小俣さんは最後に「私は再び伝統的な歴史学のふところに戻っていくだろう」と締めている。しかし、戻る前と後では、自身が馴染んだ「知」に対する見え方がきっと変わっているはずだ。読者も同じ体験を得られることだろう。研究者であれば、自身の研究「事実」が生み出される文脈を相対化する契機にもなるし、そのための思考の手がかりが本書にはたくさん詰まっている。

 

だからこそ本書は、同分野の著者の章をつまみ読みするだけではもったいない。後の章の後に前の章を見返すこともできる。例えば、第4章で導入されるアブダクションの推論というレンズを通じて、第3章の動物の「こころ」を見つめ直すのには一考の価値がある。また、各章の間には、次の章の担当者が前の章に対するコメントを数ページにわたって残してくれている。これがまた良い。冒頭の引用は、歴史学者の小俣さんから情報科学者の包さんへの所見である。

 

ただ、本書は各論としても面白いこともきちんと強調しておきたい。俺が専門家として内容を吟味できるのは佐藤さんが書いた第3章——『生き物の「こころ」は科学的「事実」になりうるか』——だ。ここでは、動物心理学の来歴と社会生物学論争の一部始終の中で「こころ」が背景化する過程、あるいはその反動からドゥ・ヴァールのような「新しい擬人主義」として再び前景化する動向が語られている。とはいえ、その流れは行動主義の抑圧から解放された動物の心の研究などという、直線的で陳腐な発展史ではない。それは学問を取り巻く情勢も巻き込んだ、捨てられる「事実」間の相克の変遷である*3。ちょうど、小俣さんも主著の中で、キリスト教の「殉教」概念を扱う中で、「その語を用いること自体が、歴史化された行為」であると喝破していた(小俣,2023,p. 6)。心にまつわる科学もまた、それは歴史や社会における価値から常にニュートラルな立場でいられるということを意味していないということだ。

 

あと、俺の狭義の同業者にとっては、ホンソメワケベラの鏡像自己認知にまつわる議論の顛末(いや、まだ係争中か...)がまとめられているので、読んでおくと勉強になるだろう。

 

こうやって本の流れを書くと、まるで「異分野融合」を謳って研究者が集められた成果物のように映るかもしれない。しかし、最初に本書の経緯を紹介したように、事実はまったくそうではない。出会う必然性がない者同士がたまたま遭遇してしまったのが、本書の発端だったのだ。本書では、こういう偶有性に溢れる現場でもあり、読んでいると「なんで俺がここにいられなかったんだろう!」という羨望と嫉妬の念すら湧いてくる。

 

「なぜ、その学術プロセスでそれが事実として受け入れられるようになるのか」ということは、研究に忙しいといちいち考えてられないというのが、ほとんどの人の本音だと思う。しかし、心理学者をやっていると、こういう場面によく出くわす。「どうしてそれでXXがわかったことになるの?」という疑問に対して、聞かれた側が実験・調査方法を再解説してしまうという学会発表や学内トークでの一幕だ。もちろん実際には、方法がわからないわけではない。心理学は文脈だらけの学問だから、同業者内でもこういったことが普通に起きてしまうが、分野を越境すると尚のことである。

 

本書の編著者であり、発起人である小俣さんは、本書では「文理融合」という言葉をあえて積極的に用いなかったことを強調していた。「学際」「異分野融合」「文理融合」の手前に、研究者である人間が出会わなきゃいけない。「学問とは真実をめぐる人間関係である」というのは、元京大総長の松本紘の座右の銘らしい(p. 258)。本書の冒頭では交差点の比喩として、十字路ではなく環状交差点(ラウンドアバウト)を用いていた(p.p. i-ii)。

 

ラウンドアバウト - Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A2%E3%83%90%E3%82%A6%E3%83%88

 

環状交差点は環状の道をぐるぐる回って、目的の道に出ていく。道がわからなければしばらく回ってもよい。歴史学者生物学者が異なる道から入ってきて、一緒に回って同じ道から抜けてもよいし、異なる出口に別れても一向に構わない。どちらの場合でも、研究者の邂逅は、交差点に入る前と後で、その人を別人に変えてしまうパワーがある。

 

 

 

 

*1:他の書評と順番が前後してしまって、申し訳なさはありつつ......。

*2:キリスト教の聖遺物の一つで、イエス・キリストが磔にされて死んだ後、その遺体を包んだとされる布 聖骸布 - Wikipedia

*3:俺も最近ちょっとそういうの書いたんで、みんな見てくれよな。

心とは何か特集にかこつけてブツクサと雑記を書く

先日、金子書房さんが運営しているnoteに寄稿した。現在、「「心」とは何か」という特集をやっていて、俺のはその記事の1つとなっている。

 

 

今回は、それにまつわる雑記でも書いてみようと思う。

 

現在オープンになっているのは、順に学習心理学、比較心理学、池田さんたちの「深層学習心理学」、発達心理学と状況論、染谷さんの「アニマシー心理学」の5つだ。最初2つの学習心理学・比較心理学は、全員合わせても日本心理学会の会員の1%にも満たないだろう。学習心理学が成立したのがジョン・ワトソンの行動主義宣言(1913年)、比較心理学の成立をジョージ・ロマネスの『動物の知性』(1888年)あたりだとすれば、前者2つは現存する心理学の中では、まあまあ古い方だといってもよい。しかし、以前取り上げたように、日本の心理学で最大規模である日本心理学会では、800件ほどのポスター発表があるが、学習心理学の発表は5件程度、比較心理学に至っては毎年2、3件程度あればよい方だ。ようは、ジャイアントパンダヤンバルクイナみたいな希少種の組み合わせから特集が始まっている。「深層学習心理学」と「アニマシー心理学」に至っては、当人たちが旗揚げをしている段階だ(個人的には、どちらも応援している)。そう考えると、この特集はえらく攻めたラインナップになっている。

 

俺にこの話がきたとき、比較心理学の他に2つ分野の候補を挙げてもらって、いずれかを担当して書いてほしいと打診があった。結局選ばなかった分野がなんなのかは、ここでは秘密にしておこう。俺は10秒くらい考えて、「やるなら比較心理学だな」と思ったのだった。理由は2つ。1つは自明なもので、俺の専門への適合性が一番高いのが比較心理学だったから。もう1つは、「この手の特集で、比較心理学が挙がるのは “おいしい”」のではないかという下心だ。

 

自分の比較心理学が専門なのでそれについて書くというのは、至極当たり前のことだろう。ただ、俺は講義では、だいたい学習心理学行動分析学に、ちょっとだけ神経科学や進化の話をすることが多い。比較心理学だけで講義してもよいのだが、専門じゃない学部生が学ぶなら、学習と行動について基本を知っておいた方が、後々役に立つことが多い。俺の昔のボスは、「行動分析学ほど退屈な学問はないが、それほど役に立つ学問もない」といっていた。俺は「前半は同意しないが、後半はわかる」と返した記憶がある。神経科学と進化についての紹介は、他の教員とのバランス次第で抜き差しすることが多い。だけど、note記事なら、そういう教育的な効果を度外視にして書いてもよいだろう。それに、打診があった残り2つの分野は、「俺じゃなかったらこの人にいくのかな」という人が何人も思いつくし、その人たちが書いた方がよいものになると確信していたというのもある。

 

もう1つの理由の方は、俺が「しめしめ」と思ったということだ。noteの方にも書いたが、比較心理学というのは歴史は長いくせにマイナーな分野だ。悲しいことに、同業者に「専門は比較心理学です」といっても「えーっと、なんですか、それ」といわれることも珍しくない。なんなら、そういう反応の方が多い。研究者の希少性を踏まえれば、仕方のないことだ。金子書房さんのnoteは、けっこう人の目に留まる。なので、比較心理学がそこに載ることには、一定の意味もあるだろう。

 

ただ、マイナーだの希少だの言ってはみたものの、動物心理学会は500名前後の学会で、この手の学会としては中規模くらいの大きさを何十年も維持し続けている。しかも実は、日本心理学会と応用心理学会に次いで、3番目に古い。本当のところは、ヤンバルクイナというほどレアではないということだ。そのわりに、よその学会では見ることは少ない。いろんな人に「日本心理学会にいかないのはどうしてなのか」と聞いてみたところ「発表してもポスターに人がきてくれない」「いっても自分の分野と関係がない発表が多い」「結局、発表を聞いてくれるのは動物心理関係者しかいない」といった声があがってくる。まぁ、俺も日本心理学会に参加するようになったのは博士課程の終わりくらいからだから、本当は人のことは言えないんだが、「そう言わずにさぁ」と言ってみることが多い。

 

さて、note記事では、俺は比較心理学における「心」は、時代ごとの問題意識とともに変遷があったという見方を提示した。これはだいぶ穏当な口ぶりに聞こえてしまったかもしれない。言ってしまえば「お利口さん」的な結論ですらある。もちろん、間違っているとは思わないし、比較心理学を紹介する上でこのような切り口になるのは自然なことだ。とにかく、この150年がそうであったということを述べるに留めておこう。

 

だが、注意してほしいのは、この結論は「そうであってきたのだし、これからもそうであるべきだ」あるいは「そうでしかありえない」ということを含意するものではない。このあたりは、比較心理学者の中でも意見が割れるところだと思う。去年ドイツで開催された「鳥類認知神経科学研究会」でも面白い議論があった。ラッセル・グレイというこの業界では有名な研究者が共同で出した「動物の認知だ認知だってみんないうが、いろんな種の動物行動をまるっとパッケージ化する "one cognition" なんて形で、動物の認知を概念化できるなんて考えない方がいいんじゃないのか?」という論文に対し、俺の元ボスがオヌール・グントゥルクンは「自然にそんなに自由度があるとは俺は思わない。ラッセル、よく聞け。 there is one cognitionだ!」と言い返していた。これも、1つの「心観」のぶつかり合いだろう。

 

記事で触れなかったが、比較認知科学(comparative cognitive science)という言葉もある。この呼び名は1990年代に普及し*1、自身のことを比較認知科学者と呼ぶ人も多い。俺もたまにいう。認知研究が「心」の研究の唯一の道なら、この分野はその考えで埋め尽くされることになる。確かに、実験心理学一般が認知の概念に溢れるようになるのに追従するように、比較心理学も、そうなりつつある。でも、そうやって使う概念をコロコロ変えるのは、今に始まったことでもない。場合によっては、将来的には認知的概念のほとんどは過去の遺物として、歴史的な関心を呼ぶだけになることだってありえる。エドワード・リードという生態心理学者は、心理学の歴史を「いかがわしい革命の繰り返し」なんだと酷評した。この人は、本人の鋭い知性と同じくらいの切れ味で、悪口も書く。

 

本当にリードの言う通りなのかはここでは不問にするが、比較心理学をやってるからといって、あまり日和見に走るのもよくないのだと、この5年ぐらいで思うようになってきた。俺個人としては、染谷さんの「アニマシー心理学」的な見方が共感できるが、それが功を奏するかわかるのはずっと後のことだろう。もしかしたら、生きているうちにはわからない可能性だってある。もっとも、実際には目の前の研究活動という微視的随伴性で制御されている面も大きいので、それで一向に構わない。

 

最後に、今回の記事を受けるにあたって「動物心理学」ではなく「比較心理学」にしておいたことには、隠れた理由がある。まあ、これは正直、どっちをタイトルにしてもまったく同じ内容で公開していたはずなので、誰に伝える必要のあるようなことではないんだが、微妙に心理学史的な話や動物心理学会の現状の話も関係するし、残しておこう。でも、すげー細かい話だから覚悟してくれ。

 

比較心理学には「動物心理学」(animal psychology)という名前もあって、ほとんど同じ意味で用いられる。実際、日本の学会は「動物心理学会」という名前だ。英語圏では “comparative psychology” という言葉が19世紀のはじめには定着していたが*2、ドイツ語では “Tierpsychologie” という「動物心理学」に対応する言葉がよく使われていた (ただし、 “comparative psychology” に対応する “vergleichende Psychologie” も用いられていた)。

 

動物心理学だと対象は「動物」である。なので、哺乳類だけじゃなくて、脊椎動物、あるいはそれを超えてあらゆる動物が対象になる*3。タコ、ゴキブリ、プラナリア、クラゲ、いずれも比較心理学の対象になりえるし、実際たくさん論文がある。noteでも登場したロマネスも、クラゲやウニで一冊本を書いている。この流れは細々としてものではあるが、19世紀から今まで、途絶えていない。ただし実際には、動物だけでなく、単細胞生物、菌類、植物も行動し、心理学的研究の対象になる。このことも、比較心理学の誕生当時から現在に至るまでの(さらに細々としてものではあるが)歴史的な事実である。なので、「動物心理学」という呼び名は、対象を狭めてしまうおそれがある。

 

俺自身は、そのことをわりと重く見て、動物心理学より、比較心理学の方を好んで使っている。しかし、この分野は常に「比較」を研究手法として用いるわけでもないので、名が必ずしも体を表していない。「比較」自体が大事なんじゃなくて、その言葉に込められているのは「進化」なんだという研究者もいる。これはこれでよさそうだが、2つ問題が起きる。1つは「じゃあ進化心理学でいいじゃん」となってしまうことだが、進化心理学だとTooby & Cosmidesのそれと混同されると困る。比較心理学研究の大多数は、Tooby & Cosmidesの進化心理学とは、方法論的にも、科学哲学的にも、歴史的にも、ほとんど関係がない。もう1つは、比較心理学者が、必ずしも進化を研究しているかといえば、別にそうでもないということだ*4。というか、本当に進化研究をやるなら、学会発表の半数の対象種が、げっ歯類になるはずがない。比較心理学的な進化研究をする人もいるし、増えてほしいと思うが*5、動物心理学会の中心になるほどの代表性は、現状ないということだ。

 

俺は、そういうミスリーディングさのない呼び方としては、「生物心理学」(biopsychology)が本当はピッタリなんだろうなと思っている。“psyche” が「魂」だけでなく「呼吸をすること」の意味もあり、生命活動を指しているのなら、“bio” と “psyche” をくっつけるのは同語反復じゃないか。そう言いがかりをつけようと思えばつけられてしまうのだが、そこには目を瞑っておこう。実際、生物心理学者という看板を出している人もいる。俺が昔在籍していたルール大学ボーフムのオヌール研究室も、 "biopsychology lab" だった。という感じで、俺にとっては親近感のある名前でもある。でも、無闇矢鱈に聞き慣れない名前で自己紹介して「それってどんな分野なんですか?」と相手に聞かせてしまうのも申し訳ない。なので、若造はなるべく聞き覚えのある分野名で名乗るのである.......(しかし、上述の通り、「その甲斐虚しく」というやつだ)。

 

*1:ただし、"cognitive ethology" ならもっと古い。

*2:なので、Romanesが作った言葉ってわけではない。ロマネスより前に「比較心理学」というタイトルを冠した本もあった。

*3:そのわりには分類群に多様性がねえな?という指摘も、昔からある。

*4:加えて、比較をしたから進化の研究になるわけでもない。

*5:これはオマエモナー案件である。

学際的研究の単一事例記録

先日、現象学者の柳川耕平さんと一緒に書いた論文が出版された。タイトルは "On concepts of action and behavior as the implicit point of agreement between Enactivism and Radical Behaviorism" で、心理学の哲学に関する内容になっている。

 

論文はこちら。オープンアクセスにしておいたので、よかったら見てね。

link.springer.com

 

また、大元の内容は2023年の犬山認知行動研究会(通称 "犬会")でも発表したので、「興味はあるけど、論文を読むのはちょっとハードル高いな......」という人がもしいたら、スライドを送るので気軽に連絡してほしい。

 

この論文では、Enactivismにおける「行為」と徹底的行動主義における「行動」、特にオペラントの概念を突き合わせた。最初は、行動主義パートを俺が書いて、柳川さんがGallagher のEnactivismについて書き、お互いがお互いの文章を直しあった。その後、査読の中で、いわゆる "Autopoietic Enactivism" や "Radical Enactivism" と呼ばれる立場についても触れるべきだと指摘を受け、2人で関連書を読みながら増補していった。両人とも未読の書籍にあたる必要も出たため、ここは苦労したが、楽しい時間でもあった。

 

さて、行動主義は、とりあえず悪者扱いされるのが決まりとなっている。やれ「刺激-反応理論」だとか「心の存在を否定している」だとか、あるいは「同じ刺激入力に対し同じ意識経験が成立すると仮定しているがそんなことはありえない」なんてのもある。この論文では取り上げなかったが「行動主義はアメリカ的な商業主義的・反知性主義傾向の現れである」なんて言い方をする人もいる。これについては、いったい、何をどういう読み方したらそうなるんだ? と思う。そういうのを逐一否定して回るのは、別に俺の仕事ではないが、誰がいつ言い始めたのかはちょっと気になる。震源地がわかる人がいたら教えてほしい。俺自身は、これらとは別の理由から行動主義には問題があるなぁと思っているが、ここでは傍に置いておこう。

 

以上のような批判は、よく見るものなので特に珍しさはない。戯画化されているという指摘も、昔からずっとある。加えて、最近は哲学の文脈でも、「行動主義、一定の側面については再評価してもいいんじゃない?」みたいな人が、少数だけど出てきている(例えばBarrett, 2019)。ただ、俺の不満として、この手の論考で具体的な行動主義の内実に入っていくものが、俺が知る限り1つもないというのがあった。だいたい、「最近に古典的認知主義の問題を考えれば、見直していいかもね」とか「プラグマティズムにコミットしているらしいから、ギブソンとかEnactivismとも繋がりそうじゃないか」とか、そういう引き方だ。

 

とはいえ、これは仕方のないことでもある。徹底的行動主義なんかは、行動の科学の哲学だなんだと言いつつ、結局、その科学的実装部分である行動分析学がある程度わかっていないと、何言っているのかわからないか、あるいは深刻な誤読をしてしまう可能性が高い。ようは、科学部分を抜きにして哲学を理解するのが難しい*1。忙しい研究者が、そんなところまでカバーしてまで行動主義を取り上げるは、ちょっと大変だろう。

 

このような立て付けの下で、俺たち論文では「行動」に注目した。理由はいくつかある。1つは単純に、俺が行動に詳しいから。それに、行動主義の「戯画化問題」は、基礎概念に対する理解の問題でもあるというのが、俺の診断であったからというのもある。そのことについても、論文中では触れている。オペラントは、運動じゃなくて「機能クラス」という事象間の関係性で規定される行動概念なんだが、そう考えるべき理由もいろいろある。Enactivismにおける「行為」というのは、環境の関わり方、つまりは相互作用だ。この論文では、随伴性という行動分析学の概念に引っ掛けて、両者の親和性について論じたわけだ。Enactivismサイドが、それでもなお、両者は違うもんなんだ、と言いたければ、行為についてもうちょっと明確にしなきゃいけない。やや挑発的な書き方をした部分もあるが、俺個人としては、そういう反応に期待している。気が向いたら、論文の方を読んでみてほしい。

 

この研究の裏話をしよう。始まり方は、まったくの偶然だった。俺と柳川さんは、当時、北海道大学の人間知・脳・AI研究教育センターに在籍していた。しかも、仕事をするオフィスが同じ部屋だった。専門は全然違うが同期だったこともあって、何かとよく喋るが、特に共同研究をしようという話は出たことがなかった。

 

ことの発端は、柳川さんが Shaun Gallagher の "Action and Interaction" を輪読していたことにあった。輪読から帰ってきた柳川さんが「本に行動主義ってのが出てきたんですけど......」と振ってきて話が始まる。今でこそ、俺はEnactivismにシンパシーを感じているし、重要な考え方だと思っているが、当時は詳しく理解しているわけでもなかった。それでも、ぱっと見、言っていることに似ている部分があるようには思っていた。でも、Gallagher 本人は、断固として違うんだと述べている。「敵の敵は味方みたいな言い方するな!」みたいな調子でね。ただ、違うと言っている理由が、あまり説得的であるように見えなかった。とにかく、立ち話しているくらいじゃ、どうにもこうにも腑に落ちなかった。ということで、これは2人で考えてみてもよさそうだぞ、という運びで、2週にいっぺんくらいの頻度で議論するようになった。

 

最初から論文になるとは思っていたわけではなかった。ある程度考えがまとまってきた段階で、同じようなことを議論している人がいないことに気づいた。そこで論文にしてみようと思ったわけだ。先にアウトカムを出すことが決まっていたのではなく、誰に言われるでもなく、自発的に生じた学際研究だったのが、この論文の気に入っているポイントでもある。

 

学際という言葉には、研究者は各々いろんな感情をもつことだろう。実際に、そういう研究に携わっていて夢中な人もいれば、まったく逆の人もいる。Xでこの手の話題になると、「片方の分野がもう片方を搾取する構造ばかりだ」とうんざりしている人が、決まって現れる。いろんな人がいろんなことを言っているが、全員、嘘をついているわけでもないのだと思う。

 

今回の研究は、とりあえず1つの論文になったが、次の矢も準備中である。うまくやっていけているのには、いくつか理由がありそうだ。ありふれたものではあるんだが、こういうのは、多くの人が何度でも声に出しておくことが大事だと思う。大した理由ではないということは、他の人が真似しやすいことでもある。

 

(1)とにかく、同じ部屋に突っ込まれていた

俺と柳川さんは、居室が同じだった。まったく専門分野が違っていても、とりあえず毎日顔を合わせることになる。よく言われることだが、こういうのが結局効いてくるということだ。それには相応な理由もある。学問にボーダーがないといえ、さしあたり各分野に名前が与えられている。それには一定の経緯があることがほとんどだ。なので、そこを跨いで何かしら論じるだけの文脈がないと、学際研究というのは難しい。そういう種がそこらじゅうに散らばっていればいいんだが、そんな都合のいいものでもない。種を見つけるのが難しいとき、最良の方法は何か? たくさん打席に立つことだ。会話の数が増えれば、それだけチャンスも増える。

 

そういえば、俺が昔いた研究室は、ポスドクと博士院生が合わせて10人以上いたビッグラボだったが、コーヒーメーカーは1つだけで、みんなそこにコーヒーを淹れにきていた。結果、そこで会話が増えて、協力が生まれていた。

 

毎日嫌でも(決して嫌じゃないが)会っていると、どうなるか?

 

(2)シンプルに仲がよい

そう、仲良くなる。会えば話すし、その日あったこと、研究の進展、あるいは愚痴くらいは話すようになる。なんなら、俺と柳川さんは一緒にバイクで遠出するくらいには親しい。大抵、俺がちょっと過酷なツーリングプランを組んで振り回す。今回の研究は、当初は "Action and Interaction" の一節について雑談することから始まった。結局、人間同士がやることなので、仲が良くない学際研究は、おそらく地獄である。

 

あと、仲がいいと、互いの分野に不平不満を言いやすい。そこは結構大事で、「なんでこの人、こんなこと言うの?」をストレートにいえない学際研究は、ちょっと窮屈だ。俺たちは、カジュアルに「これはおかしいよね」と吹っかけてしまうが、それが何か問題になったことは(たぶん)ない。

 

「学問の世界は "言い方" は問題ではなくて、正しいことを探すのが大事だから」というのは考えもある。でも、そういう正論をぶん回されると、多くの人はそのうち、相手にするのが疲れてくるんじゃないかと思う。これは、言いたいことをいえない窮屈さ以上に致命的なことだ。自分にとって必要な研究であればふんばりも効くが、俺たちのやったような仕事は、義務としてやっていたわけではない。結局、異分野の対話が本来であれば受けなかったはずの「詰め」として感じられてしまうと、自分の分野に籠る心地よさからの誘惑に、耐えられなくなってしまう人の方が多いだろう。

 

(3)お互いがお互いの分野を学ぶ気がある

これは「学際研究」について研究者が何かを述べるとき、ほぼ全員が指摘することだ。俺もまったくもってその通りだと思う。俺は心理学や行動主義について柳川さんに教えたし、柳川さんはEnactivismの中でも、とりわけ現象学の影響がある部分についてたびたび教えてくれた。論文にするときも、お互いが投げっぱなしにすることなく、互いの担当箇所について、目を通して修正するくらいには詳しくなっていた。

 

俺個人は単にどちらかが必要に迫られて、もう片方ができることを貸す、というタイプの学際研究もやったことはあるし、それはそれで学ぶことがあって良かったと思っている。でも、今回のそうではなくて、本来だったらどっちからしてもやらなくて一向に構わないはずだけど、やらずにはいられなかったというものだった。こういうのは、やっぱり思い入れが深くなるね。

 

 

 

 

 

 

 

*1:逆もしかり、と行動分析学者はいうだろう。そんな気もするが、そうであってほしくない気持ちもある。