俺が徹底的行動主義じゃない理由を・・・え?興味ない?

Skinnerは「私が認知心理学者じゃない理由」って直球の論文を書いてるんだが、タイトルはそのオマージュなわけだ。普段からなんとなく思っていることを、ちょっと書き出してみようと思った。

 

俺は行動分析学会の会員ではある*1ものの、行動分析家ではない。応用・臨床的な活動をしたことはないのはもちろんだが、実験科学者としても行動分析学の研究で公刊済みのものは1つしかない*2。だけど、そのへんにいる心理学者よりは行動主義については詳しい自信がある。それは大学院を通じて坂上先生 (ガミさん) のゼミに出席していて、毎週のごとくSkinnerや関連する論文を全訳し続けてきたから、その杵柄なわけだ。人文系の人たちなら普通のことだろうけど、ガミさんのゼミでは読解が1段落で止まって、それで1コマが終わることもあった。心理学では今時珍しいんじゃないかと思う。なんというか、古き良き大学院って感じだよね。ありがちなことだとは思うが、出席している当時の俺は、それほどありがたがることもなく、深く自分の考え方に影響しているとも思っていなかった。こういうのは、後にじわじわと影響が出てくるものだ。

 

ひとたび大学院を出ると人に「行動主義とはなんなんじゃ」ということを人様に向かって説明したり、あるいは、どこで吹き込まれたのかもわからない誤解に対し「いや、(徹底的) 行動主義って、そういうものじゃないんですが・・・」と擁護したりすることが増えてきた。去年の暮れには、某所のジャーナルクラブで取り上げられた論文が丹野 (2019) の「徹底的行動主義について」 だったということもあり、お誘いを受け、解説めいたこともしてしまった。学位取得後に俺のことを知った人からすると意外かもしれないが、ガミさんが生きていれば「君がまた、どうして」笑ってしまうことだろう。

 

勘違いされることも多いんだが、俺は人に「徹底的行動主義者か?」と聞かれたら、はっきりと「NO」と答える側の人間だ*3。これは謙遜でもないし、逆に「行動主義者」はなんか知らんが厭われがちだから、意固地になって違うと言っているのでもない。むしろ行動分析学の研究者からすると「いや、そりゃそうでしょう。お前は徹底的行動主義じゃないよね。何を当たり前のことを・・・」って思うところだろう。当の徹底的行動主義がどういうもので、何を述べているのかは丹野さんの論文でも読んで理解してもらうとして、俺が徹底的行動主義者じゃない理由を述べてみよう。考えてみたら色々思い当たる節はあるんだが、その理由は差し当たり4つに分類できそうだ。

 

① 動物の行動の多様性を生物学的制約として狭い領域に置かれたらちょっと困る

② 意識を言語行動の方に持っていかれると困る

③ 必ずしも「徹底的」行動主義である必要がない場面が多い

④ 随伴性という分析単位が、俺の知りたいことに対して粗視的な場合が多い

 

これは後ろに行くほど、俺にとって重要な話になっていて、かつ、自分の中でも解決できていない問題になってくる。それほど重要ではない話から始めよう。重要じゃない話の方は、重要じゃない代わりに簡単だからだ。

 

 

① 動物の行動の多様性を生物学的制約として狭い領域に置かれたらちょっと困る

これは比較心理学・比較認知科学を専門にしていれば、似たり寄ったりな印象を持っている人も多いと思う。ようは、自分の関心、それも自分にとってはそれが主題としての地位を持つに足る重要な問題だと信じているものが第一義的な位置にないから、それはちょっとな〜ってだけの話。

 

「だけの話」とは言っても、研究の主題選択に関わっているという点では、バカできたことでもない。大前提として、比較心理学だって、別に個々別々の動物が異なる行動していることが嬉しくて、その動物のことだけを知りたくて研究してるわけではない*4。多様な動物行動を生み出す一般的な法則を知りたい。この気持ちは別どちらを専門にしていても変わらないだろう。比較心理学者と行動分析学者だと、そこへの態度がちょっと違う。比較心理学者は典型的には「多様性を生み出す」法則性に関心があるが、行動分析学者だと「種間で共通している原理」に関心がある人が多い。この辺りはどっちがえらいって話でもない。どっちも人類が知るべき知識だし、その知識の極北では、こういう区別自体が意味をなさなくなるかもしれない。この話題は既に何周もされているから、俺が改めて付け加えることもほとんどない。こんなところでいいだろう。

 

1つだけ言い添えるとと、この第一の理由は「徹底的行動主義」(哲学) というより「行動分析学」 (実践) 側の話だし、行動分析学の中にだって、例えばTimberlakeのように動物の固有の行動パターンの構造を見たほうが、結局は予測と制御にも寄与するのだと、行動学的アプローチの重要性を説いた人だっている。ありていに言えば、いろんな人がいるんだ。Timberlakeの話は、日本語で総説にしたものが出版されるからみんな見てくれよな。

 

 

② 意識を言語行動の方に持っていかれると困る

これも前提なんだが、徹底的行動主義は意識をないものとして勝手に消去したり、科学から追い出そうと排除したりする思想ではない。「え?そうなの?それは、初めて知った・・・」と思った人は、こんなブログ読んでる場合じゃなくて、丹野論文や、関心があればSkinner本人の文章を読んだ方がよっぽどタメになるぞ。

 

徹底的行動主義における意識の位置付けは、いわゆる「私的事象」と呼ばれるところにある。私的事象は、「俺」や「あなた」自身が観察していて、かつ、他の人は観察していない事象である。ようは観察者1人の事象のことだ。例えば、内言がそうだろう。声に出さない痛みもそうかもしれない。感情も情動表出がなければ私的事象なことが多い。クオリアって呼ばれる感覚質は、Skinnerの時代にはなかった言葉だが、定義的には私的事象ってことでいいだろう*5。その私的事象というのは、私たち自身が弁別できる。どう弁別するか?言語的に弁別し、その言語行動は社会的随伴性によって形成・維持されてきたものだ*6。この考え自体に対して、行動主義内部でも異論はあるが*7。意識の進化理論群はお互い批判しあったり、部分的に同意しあったりしつつも、共通するのは生物進化における意識の連続性に正面から立ち向かおうとしている点だ。つまり、これらの説はいずれにも、自然における意識の位置について各々の見解が盛り込まれているわけだ。それがうまくいくのか、最終的に全部見込みがありませんでした、となるのかはわからない*8が、少なくとも検証可能な仮説は湧いて出てくる。

 

一方、徹底的行動主義における意識の位置づける場所は自然ではなく、社会の方になってしまう*9。私的事象の弁別に使われる言葉が、社会的随伴性の産物だから、探求すべきはその言語随伴性の成立や維持、変遷の過程になるわけだ。自然科学に立つ者として、そう突っぱねるより先に、まだやるべきことがあるんじゃないかと思ってしまう。

 

③ 必ずしも「徹底的」行動主義である必要がない場面が多い

徹底的行動主義は、いまや行動主義の中では唯一人口を保っている立場であるから、21世紀にはそれしか存在しないように見えてしまう*10。しかし実際には、Skinnerを批判的に継承して、必要な箇所は改変していく動きもある。個人的に、俺はそういう人たちをpost-Skinner行動主義と呼んでいる。

 

post-Skinner行動主義の代表格は、応用の世界で有名なSteven Hayesの機能的文脈主義だ。機能的文脈主義は、日本でもいくらか紹介されている*11。俺がよく知っているのは、William Baumの巨視的行動主義、Howard Rachinの目的論的行動主義、John Staddonの理論的行動主義、William TimberlakeとWilliam Donahoeが独立に提案した生物学的行動主義だ*12。俺が書いた実験的行動分析のpost-Skinner行動主義をまとめた日本語総説が、今年公開される予定だから、どんなこと言ってる連中なのか、興味があればそれを読んでほしい。あと、一部は過去にも書いていた。

 

heathrossie-blog.hatenablog.com

 

post-Skinner行動主義は、Skinnerほど広範な体系にはなっていない。ここは認めなきゃいけない。しかし、徹底的行動主義では物足りない部分を、なかなかいい感じに掬い取ってくれている。例えばRachlinなら、Skinnerが私的事象を概念的分析に頼る羽目になったのは考えている行動の時間幅が狭すぎるからだと批判した。Rachlinに言わせれば認知心理学者もSkinnerも、考えている時間スケールが短すぎる。心的概念で分析されるような事象というのは、もっと長い時間で考えられるような時間的に延長された行動 (temporary extended behavior) として考えなきゃダメなんだ、と言ったりする。ちょっとざっくりした説明でピンとこないかもしれないが、俺は結構的を射ているな、と思う節がある。そういうわけで、俺は「徹底的」行動主義にこだわらなくとも、考えたい問題に合わせて適切な思考の枠組みを与えてくれるものは、他にもあるように思っている。

 

とはいえ、post-Skinner行動主義同士は結構対立点があって、和解不可能に見える批判の応酬もある。その辺りは「なんでもあり」とはならなそうだ。とはいえ、Skinnerの徹底的行動主義も、post-Skinner行動主義も、思索の中で生まれたわけではない。実験的研究をする中で、どういうふうに行動の科学研究を進めていくべきなのかという描像を打ち出していった。なので、これらをまとめた次世代の思想が出てくるのかどうか、自分の中でどう調停するのかどうか、これ以上は概念的分析ではなく、実験研究の中で考えていきたいと思っている。

 

④ 随伴性という分析単位が、俺の知りたいことに対して粗視的な場合が多い

最後は、実は長年思っていたことでありつつ、いまだに言語化に苦しむところになる。俺は行動に詳しい人のように振る舞っているが、「お前が最も詳しい行動は何か」と言われたら、「鳥のついばみ」だろう。俺が元々やっていた研究というのは、ハトやカラスが餌をつっつく行動だったからだ。この研究はようは、運動制御であり、行動分析学においては「トポグラフィー」と呼ばれるものだ。

 

行動分析学では、行動は随伴性で定義される*13。つまりは、行動は運動じゃなくて、前後の事象間の機能的関係で定義される。毎回いろんな軌道を描く運動も、同じ機能を果たせば同じ行動として1つの集合をなしている。それを行動と呼ぼう、ということだ。この集合のことは、機能クラスって呼ぶことが多い。こういう定義の仕方をすると、実は大変便利だ。物理的には毎回異なるトポグラフィーを持っている運動のバリエーションに悩まされる必要がなくなるからだ。それに、一見異なる行動も、同じ機能を果たしていれば同一の行動と見なせば、そういう行動はえてして同じ制御要因によって起きていることもある多い。

 

俺はこれが大変便利な「粗視化」であることは、疑っていない。随伴性は、自分でもよく使う概念だ。しかし、環境と個体が切り結ぶ関係を記述する上で、この概念だけでは不十分だろうとも感じている。俺は多分、日本で一番ハトとカラスのついばみ運動を見た人間だと思う。なんでこんなことをしたのだろう?一番最初の関心は、カレドニアガラスが道具を使って採餌をすることだった。彼らはクチバシ使って木の枝や硬い葉を整形し、朽木に潜む昆虫を釣り上げるよう繊細に操作する。多くの比較認知科学者がその行動にまつわる「高次認知」に関心を持つ一方、俺が問うたのは「腕の先に目があるような身体デザインで、こういう行動をするには、どういう問題が起きうるだろう?」ということだった*14。結局、事情があってカレドニアガラスはクチバシの形態計測研究で終わって、そこからはハシブトガラスとハトを使った、より基本的な動きの研究として「ついばみ」を選んだわけだ。しかし、問題意識の核が変わったわけではなかった。

 

Edward Reedという生態心理学者は、動物が「周囲の状況が要求する機能の変化への同調する」ことを機能特定性(functional specificity) という概念で言い表した*15。事象間の相関性のレベルではそれは随伴性という言葉で表現できるかもしれない。でも、Reedが考えているのは、時間を区切った事象として単位化されるようなものでもなく、刻一刻と変化する動物の動きと環境との関係の中で達成される、その達成のされ方 (つまりは特定性) であるように思う。Reedにとっての行動とは、そういう特定的な機能を生み出す流れで、その流れはエコロジカル情報のピックアップを介して達成される。俺がついばみの運動をひたすら計測して、その動きの時間発展を記述し、実験的介入の効果を比較し、動物がどういう知覚的流れの中で生きているのかを捉えようとしたのは、そのような意味での行動だったような気がする。

 

こう考えたら、俺が徹底的行動主義者でないのも、ほとんど自明なことのような気がする。徹底的行動主義は強力な思考の枠組みで、それを使って考えられるものは、その上に乗っかって思考した方が大抵の場合、破綻のない道を歩いていける。ここでいう粗視化というのが、ネガティブに映ってしまったかもしれないが、実際には逆だ。行動現象は適切に粗視化した方が、秩序だった法則性が見えてくることが多いし、そこから得られた教訓が「行動分析学」と名のついた教科書に登場する一般性の高い知見なわけだ。しかし、その水準では見えてこない動物行動の魅力に取り憑かれてしまった比較心理学者は、随伴性の世界から離れなきゃいけない瞬間がくる。それは、単に微に入り細に入りなせせこましい研究に終わる恐れと隣り合わせでもあるが、より分析の時間スケールに豊かな階層を持つ行動の科学に向けての試論でもある。俺は、後者の可能性に賭けてみたい。

 

 

*1:会員になったのは2023年だがな

*2:これはちょっと情けない話で、誇らしげにいうことでもない。だけど、もう少し増える見込みではある。

*3:いわゆる「認知主義」と呼ばれている立場よりは筋が通ってんな、とは思うが。

*4:そうだよね?

*5:原理的に1人でしかありえないのか?と問いたくなる気持ちは、ここでは抑えてほしい。それは現代科学ではまだ答えられていない問いだ。

*6:クオリア」に関しては、言語的に弁別した瞬間に失われる「質」そのものを指していて、ここでの例としては微妙だ。適当な私的事象に思いを馳せながら読んでほしい。

*7:例えばBaum (2012)))、ひとまずSkinnerの徹底的行動主義では、そう考えるんだな。

 

ここで、「意識の位置づけ、それでいいの?」という気持ちが俺にはある。ここ最近になって、行動分析学の外では意識の進化理論がたくさん登場している((代表的なのがGinsburg and Jablonka (2019)、Feinberg and Mallatt (2016)、他にもVeit (2023)、Le Doux (2020)、Godfrey-SmithGodfrey-Smith (2020)と、いろんな立場がある。そして、正確には意識そのものの理論ではないが、Mitchell (2023) が俺のお気に入りだ。進化に限らなければ、統合情報理論、グローバル・ニューロナル・ワークスペース、高次理論 (HOT)とかが有名だよな。

*8:もちろん俺は、まだ諦めるほど絶望的な状況じゃないだろうと思っている。

*9:人間社会だって自然の一部だ、みたいなことはとりあえず置いておいてほしい。ここで指しているのは言語行動の随伴性を維持する共同体であって、自然科学が通常相手どるそれ以外の個体の随伴性や集団が長い時間をかけてどう変化していくかという話ではない、と言いたいだけだから。

*10:厳密にいえば、Linda Hayesは "Psychological Records" という雑誌は相互行動主義 (interbehaviorism) の思想で運営していたし、後任に譲ってからもその方針は変わっていないと言っていた。とはいえ、相互行動主義者は世界的に見ても、100人には満たないだろう。言ってることは面白いんだけどね。もっと増えたらいいな、相互行動主義者。

*11:武藤 (2021)が最もまとまっている。

*12:あと、Foxallの意図的行動主義というのもあるが、これははっきり言って行動主義とは言えないだろう。

*13:詳しく知りたい人は、これを読んでくれ。

*14:俺の畏友は10年近く前のことを覚えていてくれて「手の先にカメラがあって、そのカメラを通じて物を取る状況を想像してほしい」と、当時の俺は言ったらしい。言った気がする。

*15:俺にとってReedのこの本は、これまで読んだ中でもっともインパクトを残している本だ。まだ消化しきれていないし、今後何度も読み返すことになるだろう。

「深層学習と新しい心理学」の感想にかこつけて行動の科学のあれこれを語る

つい先日こんな記事が出てXで流れてきた。

www.note.kanekoshobo.co.jp

 

結構いろんな人が反応してるから、俺も流れに乗ってなんか感想くらい言っておこうと思う。まあ本当に流れに乗っかって書くだけなので、ただの感想文みたいなもんでしかないけどね。

 

文脈としては、9月に開催された日本心理学会でのシンポジウム「深層学習と心理学 ー その可能性を探る」の背景的にあるモチベーションの話として、心理学における深層学習の位置付けを「ただ単に道具として便利だね。嬉しいね」以上の基幹的な関係に置こうという構想みたいだ。ちなみに、俺自身は、深層学習とは『ゼロから作るDeep Learning』を大昔に一周したのと、DeepLabCut*1を日常的に使ってるだけ。それだけのあっさい関係。

 

このシンポジウム自体は、俺も参加して楽しく聞かせてもらった。特にこの記事と関係あるのは神谷之康先生のNeuroAIについての講演だと思う。会場から認知心理学者が机を叩いて激昂する勢いで反論してくるんじゃないかとワクワクしたのだが、当日は特にそんなこともなかった。というか、会場から質問したのは俺だけだった。しかも、てってて行動主義がどーのみたいな話。あの会場で、俺だけが興味があることだったかも。でも、大事なことを聞いたとは思う。この話は少し後で戻ってこよう。

 

 

speakerdeck.com

 

 

前置きはこのくらいにして、冒頭の記事の話をしよう。

中身を俺なりに要約すると、次のようなことを言っているように思われる。

  1. 現行の心理学のやばさって「構成概念を使う」やり方そのものに原因があるのでは?
  2. 深層学習は構成概念を使った認知モデルとかではないけど予測うまくいってる。ということは、深層学習が心理学の基礎モデルになるのでは?
  3.  深層学習の解釈は物理学・生物学、あるいは計算機科学から進んでるので、解釈可能性という難点も今後解決されるのでは?
  4. よって、心理学者は予測と介入に従事し、「説明」をしたい人は物理学や生物学を勉強しましょう
  5. 強力な予測と介入の技術が、心理学のドメインでも深刻な影響を及ぼす可能性があり、その悪用に抗する知恵を我々は必要とするはずだ

 

各点に関して、何か頑張って言ってみることにしよう。雑駁とになってしまうが、許してほしい。まず第一点目、「現行の心理学のやばさって「構成概念を使う」やり方そのものに原因があるのでは?」って話。

 

構成概念が何を指しているのか、記事内で特に明示されていないから「心的概念」「心」「内的変数」なんでもいいんだがそういう感じの言葉と置き換え可能な意味で受け取っている人も多かったように見える。でも実際には、ここで述べられている構成概念とは、仮説構成体 (hypothetical construct*2 ) のことだと思われる。仮説構成体ってのは、仲介変数 (intervening variable) と対になってる概念だ。まずはそれを簡単に説明するけど、俺の「行動」論文でも書いたので、みんな読んでね*3

 

心理学ではよく操作的定義ってやつが行われるのはみんな知ってると思う。知能とは知能テストで測られるものってやつだな。操作的定義によって概念をあれこれ定義するわけだが、仲介変数の場合、単に操作と紐づけられ、それ以上の余剰の意味を持たせず用いられる。記述概念とか傾性概念とも呼ばれるけど、ようは同じ。力=質量×加速度として定義*4された「力」は、それ以上の余剰な意味を持ってない。ここで「この "力" って概念にはなあ。質量と加速度からは観測されない俺の "覇気" も込められている、そんな味付けの概念なんだぜ」みたいなことを俺が言っても、誰も相手にしてくれない。Hull派の理論に出てくる心的概念 (動因だとか習慣強度だとか) も、一連の操作とくっついていて、それ以上の意味を持たない (ことになってる)。心理学において仲介変数、記述概念、傾性概念に括られる概念その程度の意味で、至極、行動的事態を単に指してるだけ。これはまあ、こんなもんってことでいいよな。

 

一方で、仮説構成体はそれ以上の余剰な意味ってのが明示・非明示的に付与されている。例えば、「短期記憶」を測る実験課題ってのはいっぱいある。仲介変数として厳密に運用すると、それらはそれぞれの課題にガチっと紐づいていて、記憶A、B、Cとでも言うべきものだが、あまりそうは考えないだろう。それらは「短期記憶」という共通した何か*5があって、それに対し別の測り方をしてる。しかも、それが日常生活で運用されてる「短期記憶」になんらか対応している。そんな風に考えるはずだ。これが「余剰の意味」の部分*6。DL心理学で問題になるのは仮説構成体の方で、仲介変数、記述概念、傾性概念ではない。後者もダメってなったら「●●行動」みたいな測定すら困難なケースが多発する。さすがにDL心理学もそれは勘弁してくれるだろう*7

 

「心理学的説明をしたい!」って人は、仲介変数だとなんか煮え切らないと感じる人が多いと思う。逆に仮説構成体は便利なんだな。すごく内省に合う運用ができるから。比較的内省に合う認知モデルを作って、爆速PDCAで検証サイクルを回す。いいじゃん、認知主義。というふうにこれまで回ってきたことになっている。しかし、いろいろ問題もある。やや乱暴な要約をすると、例えばSkinnerは「いやそれってゆーても言語共同体の合意に基づいた単なる "言い換え" すぎなくて、行動的な事実に心的概念の指し示すものを見つけた方が有効なんじゃないすか」*8とか、「そもそも心的概念ってそんな内側のプロセスとして捉えるべきじゃなくて、相互作用の中で主体がconstitutiveな関係を持つことで実現されていると考えるべきですよね」*9とか、「いやいや構成概念の連鎖をアルゴリズミックな形で表現できるような情報処理として神経活動って必ずしもおこってないんじゃないの・・・」*10とか、まあいろいろある。操作に紐づけられた厳密さが弱まるとと、研究間の理論的繋がりも薄くなってある程度「連想ゲーム」的に仮説を出すことだってできなくはない*11。部分的にせよ、再現性問題の遠因にもなってるのかもしれない。例えば、仮説構成体に頼らない行動分析学だと「対応法則に再現性がありませんでした」なんてことになると、分野そのものが一発で大打撃を受けちゃうよね。

 

DL心理学は、構成概念に頼らない形で心理学研究を展開できるという期待があるようだ。これが2番目の「深層学習は構成概念を使った認知モデルとかではないけど予測うまくいってる。ということは、深層学習が心理学のモデルになるのでは?」という話だ。

従来の認知神経科学実験心理学の仮説構成概念の神経相関を調べるのに対し、NeuroAIが距離をとるのと同じような形で移行ができるかもしれない、そんな展望だと思われる。具体的な研究は記事内ではあまり出てこなかなったが、素っ頓狂な話ではなくて、PredNetが錯視を見るって研究*12とか、意識変容をモデル化した鈴木さんのHallucination Machineとか、想定に近い研究はちらほら出てるのかも。

 

しかも、以上のご利益は深層学習に限った話ではない。例えばreservoir computingもそうだし、特に物理レザバーの考え方は個人的には比較認知科学の新しい指針になりうると俺は思っていて、昔ちょっと触れたことがある。記事内でも触れられている複雑ネットワークだって同じことが言える。俺の後輩の山田くんは、実際にネットワークで習慣行動を説明する論文とか書いてる。ここにも構成概念とか出てこない。すげえぞ、山田*13。まあ、「別に深層学習じゃなくても目的達成できるんじゃ?」みたいなことはいくらでも言えそうだが、深層学習が広い領域で成功を収めているのを踏まえれば、とりあえず第一の旗に掲げていることを殊更にくさすこともないだろう。また、「CNNが人間の認知のモデルたり得るには、生理学的妥当性として●●が足りてないのでは?」みたいなことはいくらでも出てくるだろうけど、それは俺より詳しい人があれこれ既に言ってるだろうから、立ち入らない*14

 

さて、あちこちの反応を見ると、(1)、(2)から「深層学習を基礎に置いた心理学は構成概念フリーになり、結果として心理学的説明が不要」*15となるみたいに受け取ってる人が散見された。けど、この帰結にはやや飛躍がある。というのは、心的概念やら心やらを扱う唯一の方法が仮説構成概念ではないからだ。

構成概念にまったく依拠しない研究となると、本当に数えるほどしかないのではないかと思われます

と、記事中では述べられている。「数えるほど」がどの程度かはわからないけど、そんなことはないんじゃないかなぁと思う。もちろん「主流派」ではないのはその通りだけどね。Skinnerの徹底的行動主義、Rachlinの目的論的行動主義、Staddonの理論的行動主義、Kantorの相互行動主義、Gibson生態学的アプローチ。知覚心理学、心理物理学だって、ここで問題にされるような構成概念を使ってない研究が多いよね。後年の『認知の構図』のNeisserとかもどうだろう?Piagetの諸概念がここで問題にされている構成概念なのかは、意見が割れるかもしれない。歴史的には、Hull派のような厳密な操作主義に基づく体系、ゲシュタルト心理学、実験現象学。構成概念だって、Stevens-Boringの操作主義に忠実に基づく限りはそれほど悪さはしないだろう。逆に、連合学習理論はそのままだとアウトだな・・・。

 

おいおい、半分くらい行動主義じゃねーか、と思われるかもしれないけど、ここに挙げた行動主義者は、心的概念を認知主義に陥らない形で扱うために悪戦苦闘してきた人たちで、全員言ってることが違う。例えば、俺がわりと好きなRachlinだと、心的概念は行動の時空間的な広がりや、その可能性として目的論的に説明され、それは行動の科学の重要な対象である、なんて考える。Rachlinの本、なかなか面白いから読む人が増えたら嬉しい。なんかプレミアついて高くなってるけど*16

 

とまあ、挙げてみたらいろいろとあるわけだ。いろいろあって嬉しいねってことではなくて、いずれも「構成概念、正確に言えば仮説構成体は使わないけど、心的概念の研究は諦めないし、 "心理学的水準" とでも言うべき説明に留まってやるぜ」って枠組みなわけだ。行動主義なら「行動次元で閉じた説明」というやつだ。この点は4番目の話に繋がってくるのですぐ後ほど戻ってこよう。

 

 

3番目の「深層学習の解釈は物理学・生物学、あるいは計算機科学から進んでるので、解釈可能性という難点も今後解決されるのでは?」って部分は、現行のさまざまな議論が列挙されていて、これは後で参照できて助かる。

誰でもすぐに浮かぶ疑問は「いやでも、それが心や行動の説明としてなんか有効になるんか?」ってことだと思う。例えば「ベイズ学習を表わす式 (ベイズの定理) は、生物進化をモデル化するときに用いられるレプリケーター方程式と等価である」ことが心理学的説明としてどんなimplicationがあるのか、というのは、俺にはすぐ出てこない。きっと、DL心理学の旗手たちも今頭を抱えて考えていることなんだろう。

 

でも、別にそういうのは後から見つかった例ってのは科学の世界にはいろいろあるわけだ。例えばSkinnerだってオペラント箱作る前に徹底的行動主義を名乗ったし、Watsonだって条件づけを知る前に行動主義宣言をした。自由エネルギー原理だって最初は皮質の計算原理として出てきたと思ったら、いつの間にか生命のあり方を規定する深淵な話になっちゃってる。

 

逸話めいたことだが、Watsonは1ダースの子どもが云々という有名な文句の直後の文章で次のようにも言っている。

私は、事実より先走っている。私はそれを認める。しかし反対論の提唱者もそうしているし、何千年来そうしてきた。この実験をするときには、子供の育て方や子供が住まなければならない世界をくわしく述べることを、私に許すべきだ、ということをどうか心にとめて欲しい

これが科学者*17がとっていい態度なのかどうかは意見が割れそう*18だが、発見に先走った主張ってのはままあることなんだな。

 

なので、ここはこれ以上とやかく言うところでもないだろう。DL心理学をまじめに取り組めば、経験的にわかっていくことだろうから。

 

 

一番問題になりそうなのはここ、4番目の「心理学者は予測と介入に従事し、「説明」をしたい人は物理学や生物学を勉強しましょう」ってところ。実際、やや煽り気味にも見えるが、端的に次のように書かれている。

予測や介入を超えて、より深い、理論的な説明をしたいと望むのなら、物理学や生物学を学べばいいでしょう。

これは、翻って「心理学的説明みたいなものはないよ」とも読めなくはない*19。構成概念を用いた心理学を脱却するという地点から、この帰結に至るにはだいぶ飛躍があるように思われる。先ほど (3) で述べたように、構成概念を使わないで心的概念を分析したり、実験に乗せたりする方法は歴史上数々の試みがなされていて、今なお息づいている。先ほど出てきたらRachlinもそうだけど、別の行動主義者Staddonだったら「行動と環境の相互作用の履歴の要約」として内部状態という概念が出てきて、それはまたRachlinとは違った分析スケールになる。すごく大雑把には、行動の科学はそういう分析レベルの設定を巡った変遷でもある*20。この諸議論は行ったり来たりしつつも、「もっとたくさんの現象を扱えるように頑張っていきたいよな」って方向で進もうとしてるわけだ。構成概念、もっと言えば仮説構成体の使用を止めるという提案から、この進展自体やめちゃおうというのは、かなり大きいジャンプがある。

 

それに、深層学習みたいなモデルを使って予測と介入に特化したら構成概念から逃れられるとは限らない。似たような事例で考えれば、わかるかもしれない。自由エネルギー原理は、「細胞の代謝から個体の行動まで、いい感じに定義した自由エネルギー (もしくは期待自由エネルギー) を最小化として定式化できるよ」という主張なわけだ。全部自由エネルギーの最小化として捉えられるなら「心理学的説明」がいらなくなって、全部形式的な操作と統一的な目的関数の最適化となって万事OK・・・とは、残念ながらならない。自由エネルギー原理を満たすような個別のモデル (プロセスモデル、と言ったりする) には、ドメイン固有の概念がどうしても出てくる。例えばBogacz (2020) のDopActモデルは、習慣行動を説明するモデルになっていて、自由エネルギー原理にしてはシンプルな定式化でいい感じに実験結果が再現できたよって話なんだが、そういうプロセスモデルを組むのに際してどうしても中に心理学的概念が入り込んでくる。もちろん、これは仮説構成体とはちょっと違う。これはよいとしよう。ただ、「元の実験がいい感じに再現できたよ」というときのデータは仮説構成体*21を背後にした実験になっている。なので、この「いい感じの再現」も当然仮説構成体に基づいた正当化が入り込んでるということになる。形式化は必ずしも仮説構成体の恣意性の混入を防ぐわけじゃない。実験心理学である限り、結局、明らかにしたい心的概念の取り扱い方とどこかで向き合う場面が出てくる*22

 

加えて言えば、「予測と介入」って言い方は、おそらく行動分析学の「予測と制御」からきているんだと思うんだけど*23、実験的行動分析学の「予測と制御」って、系統的な随伴性の操作によって環境との機能的関係を同定することにより実現されるわけなので、「何かインプット入れたらアウトプットがいい感じに現実を予測してくれた」というのとはちょっと違う。というのは、十分に個体と環境の機能的関係が同定されたなら、それは行動的な事実間に成立する法則や秩序による説明が十分に成立しているからだ。しかも、インプットーアウトプットだけじゃ実際にはだめで、後続事象の役割が大事、かつ、後続事象との有機的な関係が心的概念の内実なんじゃってのがSkinnerの主張だったりする。なので、行動分析学の「予測と制御」の語感をそのまま受け取ると結構ミスリーディングなんじゃないかと思う。

 

5番目の「強力な予測と介入の技術が、心理学のドメインでも深刻な影響を及ぼす可能性があり、その悪用に抗する知恵を我々は必要とするはずだ」というのは、俺から特に言うことはない。Skinnerも『自由と尊厳を超えて』とかで行動科学は危険すぎて悪用されたら激ヤバなので、それに対するカウンター制御を我々は知ってないとやばいみたいなことを言ってる。実際、やばい。深層学習でもきっとそれはそうなんだろう。

 

以上をまとめると、俺の感想は次のようになる。

  • 構成概念を振り回す心理学にNoを突きつける方向、俺は好き
  • ただ、それは思ったほど単純な話ではなくて大きな知的冒険になる (まあこれは上等でしょう)
  • 構成概念 (仮説構成体) の使用が「心」の科学の唯一のアプローチではなく、構成概念の放棄と「心」の科学を諦めることは同値ではない
  • 実際には、心理学的水準とは何か、その分析単位とは何かが争点になるはずだし、それは行動の科学の変遷そのものだった。DL心理学が成立しても、そこと向き合う必然性は消えるように思えない
  • 深層学習の機構の説明や解釈可能性の進展が、心や行動の有効な説明になる保証はどこにもないけど、そこはまあ俺が外野からやいのやいの言うまでもないもなく、進むことだろう

 

 

最後に、細かいところにもぶつくさ言うのもあれなんだが、一応述べるだけ述べておこう。

心理学的構成概念を用いた認知主義的制約 (マー, 1987) 

 David Marrをこれに挙げるのはあまり代表的ではないような?Marrに詳しいわけではないのだけど、MarrがDL心理学で問題にされる意味での構成概念を重視する立場なのかは、要審議な気がする。

 

行動主義や認知主義などの「主流派」を、心や社会が本質的に持つ複雑性から眼を背け、生態学的妥当性・一般化可能性を軽視しているとして批判してきました。これは正しい指摘だったと思います。

行動主義が「心や社会が本質的に持つ複雑性から眼を背け、生態学的妥当性・一般化可能性を軽視している」かどうかはそこまで単純な話でもない。Skinner (や、Kantor、Baum、Staddon、あるいはMeadやWeiss、Brunswik) は「心や社会が本質的に持つ複雑性」に対処しようとして社会論や言語行動についても概念的な分析を加えたわけなんだが・・・。「生態学的妥当性」は系統発生的随伴性や生物学的制約として繰り返し述べられてきて、「一般化可能性」は行動の科学の目的そのものでもある。もしかして、ここで批判されている行動主義は、Hull派のことだろうか。それなら納得できる。まあでも、Hull派は「一般化可能性」を求めた最極みたいなもんだと思うけど。

 

深層学習は、それ自体複雑なモデルであり・・・

この上の段でいってる「複雑」は複雑系科学の複雑だけど、ここの「複雑」は一般的な意味での形容に見える。

 

心理学史の中でさえ、行動主義の流行と衰退、それに代わる認知主義の到来、認知神経科学の流行、そして近年では再現可能性問題への取り組みなど、幾度もパラダイムの転換が起こってきました。

これらはいずれも「パラダイム転換」だとは俺は思わないな。

 

 

*1:このソフトウェアでやることは、訓練データぽちぽちするだけ。つまり、完全にただのお客様ユーザーレベルってこと

*2:MacCorquodale, K., & Meehl, P. E. (1948). On a distinction between hypothetical constructs and intervening variables. Psychological review, 55(2), 95.どうでもいいけど、俺、この論文すごく好き。

*3:隙あらば宣伝

*4:これは「操作的」ではないけどね

*5:この「何か」には性質、機能、entityなど、認知主義の中でも考え方によって変わる言葉が入るはずだ

*6:ちょっと余談なんだが、Greenwood (1999) は、いわゆる「認知革命」って呼ばれている運動は、仲介変数から仮説構成体への大規模移行なんじゃ?みたいなことを言っていて、これには俺も「なるほどなぁ」と一定の納得感がある。

Greenwood, J. D. (1999). Understanding the “cognitive revolution” in psychology. Journal of the History of the Behavioral Sciences, 35(1), 1-22.

*7:俺自身としては、仮説構成体どうにかなんねえかなと思いながら使ったり使わなかったりしてる。ゆくゆくは、自由な思考を毀損することなく、どうにかしたい。幸せになりたい。そんなスタンス。

*8:Skinner, B. F. (2016). Why I Am Not A Cognitive Psychologist1. In Approaches to Cognition (pp. 79-90). Routledge.

*9:ようはenactivism。例えばGallagher, S. (2017). Enactivist interventions: Rethinking the mind. Oxford University Press.

*10:Scott, S. H. (2008). Inconvenient truths about neural processing in primary motor cortex. The Journal of physiology, 586(5), 1217-1224.

*11:でも、連合学習理論だと割合そんなことないので、この部分は言うほど構成概念は関係ないのかもしれない

*12:Watanabe, E., Kitaoka, A., Sakamoto, K., Yasugi, M., & Tanaka, K. (2018). Illusory motion reproduced by deep neural networks trained for prediction. Frontiers in psychology, 345.

*13:ただ、構成概念から完全に逃れているわけじゃない。この話は少し後にする。

*14:例えば、通常のfeedforward networkのCNNなら、再帰結合の割合とか揺らぎとかbakc propの問題とか?俺は詳しくないのでこれくらいでお茶を濁しておく

*15:よく見たらそんなこと言ってない。でも、最後の方に「説明」をするためには物理学と生物学を勉強せよと言ってるし、うーん、微妙なライン。チャリタブルに読めば、物理・生物アナロジーで良い説明の体系が生まれることに期待している、というところか。

*16:そんなの読んでらんねえよって人がいたら、こっそり俺に連絡してくれ。ちょっとしたものをプレゼントしてやろう・・・。

*17:まあこれ書いたときのWatsonは既に広告会社勤務なんだがな

*18:もちろん「言い過ぎだよなあ」とは思うし、俺自身はあんまこういう態度を取らないようにしてるけど、この節はそもそも当時流行った優生学に対する反論なので、こうでも言わないと相手にされなかったのかもしれない。あるいは、単に大学クビになって言いたい放題言ってるだけか・・・。

*19:ただ、前脚注の通り、チャリタブルに見ればそうじゃないと読むこともできるし、本当のところ目指しているのはそっちなんじゃないかと俺は推測してる

*20:ちなみに、認知科学の祖であるGeorge Millerも『プランと行動の構造』で「新しい科学を名乗るからにはまずは分析レベルを述べなきゃいけないよなぁ!」とはじまっている。

*21:学習心理学の「習慣」は仮説構成体かと言われたら、「運用のされ方による」って話ではあるんだが。ただ、S-R連合とか言い始めたら、そりゃあ仮説構成体だろう。

*22:俺自身はどっちかというとそっちの考慮を頑張りたいというのが比較認知科学をやりながら思っている「裏目標」みたいな感じ。

*23:全然違ったらごめんなさい!ちなみに、予測と制御を目標って言い出したのは、俺が知る限りではWilliam Jamesだから別に行動主義の商標ってわけではない

Baldwin, J. M. (1894). Psychology past and present.

 

Baldwin, J. M. (1894). Psychology past and present. Psychological Review, 1(4), 363–391. の全訳 (DeepLを使いながら時々気づいたところだけ直した) 
 
Psychological Reviewの第1巻4号で、当時の心理学の様子が伺えて結構面白い。
 

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1. 歴史

 

 現代の心理学は、イギリス、ドイツ、フランスで主要な発展を遂げました。この運動は、そのすべての部門において、ドイツが最も大きな影響力を持っていることは間違いない。新しいいわゆる「科学的」心理学の台頭に先立つ発展の二つの主要な流れは、「思索的」「経験的」と呼ばれ、それぞれドイツとイギリスで初期衝動と実りある追求が行われた。ヘルバルト運動が勃興するまでのドイツの心理学は、思弁的原理からの演繹の章であり、イギリスの心理学は、個人の意識の経験を詳細に分析したものであった。カント,フィヒテヘーゲルはドイツにおける継承を,ジェームズ・ミルジョン・スチュアート・ミル,ヒューム,リード,ベインはイギリスにおける継承を,十分に表現している。

 

 ヘルバルトとその学派の研究は、ドイツの思想に、より経験的な取り扱いを持ち込む傾向があり、その意義は2つあった:思索的方法に対する反対を喚起し、イギリスの分析結果に対してドイツ人を準備させたのである。さらに、今世紀にドイツを席巻した実験的探求の精神は、ヘルバルトが『心理学としての研究』(1824年; “Psychologie als Wissenschaft”)の中で、心の「機械的」かつ「静的」な構造を構築しようとした忍耐強く並外れた試みによって、この部門の労働者がより容易に同化できるようになったと考えるのは正当な仮説であろう。

 

 心の実験的治療がドイツで最初に提唱され、開始されたという点で、成長と再生産によってその生命力を示すすべての新しい運動の創始者の功績も、ドイツの思想家たちにあるのだ。しかし、このことについては、以下に詳しく述べます。

 

 心理学に対するフランスの貢献は、明らかに重要度が低い。しかし、その作家たちの仕事は、実り多い生産的な動きを示している。フランスの研究は、現在広く普及している意識に関する概念に影響を与えたのは、医学の側からのものであった。精神病理学とそれが心の理論に与える教訓は、おそらく最も多くフランスからもたらされた。いずれにせよ、イギリスやドイツの研究者による最近の素晴らしい研究を軽視するわけではないが、意識に関するフランスの研究の、いわば傾向は、異常な側から人間の営みにアプローチすることであった。

 

 アメリカでは、心理学的な意見を支配する傾向のある影響は、主に神学的な側面と教育的な側面とがあった。アメリカには、自国の偉大な思索的思想体系が存在しないため、ドイツの発展を特徴づけた合理主義的神学への侵入や、観念論的体系に事実の根拠を与えるような心理学的解釈の試みが、一度に行われなかったのである。ドイツでは、さまざまな「自然哲学」が、理論的な世界弁証法を支える客観的な科学の中にさえも見出そうとし、心理学は、普遍的な仮説を利用するための卓越した劇場であるため、さらに悪い結果に終わっていた。しかし,アメリカでは,人はあまり思索的でなく,思索的な人は神学者であった。だから当然、心理学者も神学者であった。ジョナサン・エドワーズ代理人についての教義を持っていた。

 

 教育の影響は神学の補助的なものでしかなかった。研究のための講座を持つ大規模な大学がないこと、教派の管理のもとに存在する教育財団の性質、成長する町に牧師を供給する必要性が急務であった中心地で考えられた教育の目的、ピューリタンが学校と宗教学校を支持する伝統を持っていたという我々の文明にとって健全な事実、これらすべてのことが、このように中心的重要性を持つテーマにおいて、神学的に健全で、生活における訓話的教訓となる書物が執筆されるべきであったことを意味しているのである。「心理学」という言葉も、ようやく定着してきたところである。精神」「道徳」哲学は、「魂」についての教育課程のタイトルであった。

 

 このような状況が促した哲学のタイプは、現実的であったことは容易に想像でき るでしょう。スコットランドの自然実在論アメリカの思想のタイプであり、現在も、大 学中心部において、神学や教育に対する義務とは別に、体系的哲学それ自体が目的とな っている場合を除き、おそらく私が示した理由によるものでしょう。心理学に関する限り、この現実主義的な傾向は大きな利点であった。それは、精神的現実を拡大し、「意識の発露」を尊び、「自己の即時知」を現実的に解釈し、原因、時間、空間、神などの大きな「直観」を確固として定着させることにつながりました。この傾向は、神学においてより影響力のある著作においてさえも顕著である。チャニングやエマーソンはもちろん、スミスやチャールズ・ホッジも、議論の礎を「意識からの証明」に何度も何度も置いているのである。

 

 哲学を心理学的にとらえ、その基礎を宗教的動機に置くという傾向は、現実主義の本場スコットランドでも見られる:そしてそれは、すでに1が語ったイギリスの思考方法の一部である。1880年までにアメリカで書かれた心理学に関する著作は、予想されるように、神学者と教育者の手によるものであり、通常は両者が同一人物であった。このようにして、アメリカの学問のランドマークであり、福音主義神学の小道具であり、成長する学生にとって最高の価値を持つ学問的補助であり、私が示した二重の影響の証拠である一連の著作が書かれたのである。エドワーズの「意志の自由」(1754年)、タッパンの「エドワーズの復習」(1839年)、「意識への訴えによって決定される意志の教義」(1840年)、ヒコックの「合理的心理学」(1848年)、「経験的心理学」(1854年)などがそうである。ポーターの『人間知性』(1868年)と『道徳科学』(1885年)、マコッシュの『心理学』(1887年)と『第一および基本的真理』(188g)など、これらの本と同様の本が1880年頃までのアメリカの心理学を示しています。

 

 哲学のためではなく、心理学だけのために言えば、私個人の判断ではなく、現在の万博の年の基準と比較して、その長所と短所を指摘することは簡単です。しかし、むしろこのことは、現在をスケッチし、アメリカの作品を修正した新しい要素と、それがどこから来たのかを示すことによって示す必要があるのです。

 

 心理学思想の現状に目を向けると、科学としての心理学と形而上学との間で離婚が強要されているため、私の仕事は容易になっています。先に述べたように、ヘルバルトは、数学を心の「順列と組み合わせ」に適用する試みには失敗したものの、心的現象の新たな扱いへの道を開いたのである。彼の試みの後、意識的な生活の事実が重要な順位を占め、存在や絶対者などの問題とは全く無関係に詳細な方法で処理することが可能であることがわかり始めたのである。このことは、フォルクマン『心理学入門』(第4版、1894年)やリップス『精神世界の基礎知識』(1883年)の著作が物語っている。

 

 これは、ロック以来、英国で行われてきたことを始めたに過ぎません。しかし、ドイツ人はさらに踏み込んで、デカルトライプニッツやリードが以前か ら考えていたことですが、精神状態の流れやその完全性や信頼性の明白な条件の一つで ある脳がまったく考慮されないままでは、心理学は科学として成立しないのではないか という疑問を投げかけました。心と脳の結びつきの法則とは何なのだろうか。そして、脳を修正することで、心を修正することは可能なのだろうか?もしそうなら、科学的研究の偉大な道具である実験が、心理学者にもその役割を果たすことになり、彼の資源は見事に拡大されることになるだろう。

 

 これは、実験心理学の問題である。ドイツでは、この問いに肯定的な答えが返ってきました。そして、ヴントは、肯定的な答えを不可逆的な歴史的事実とする大規模な実験を実際に計画し実行することによって、ロッツェの才能の期待を最初に実現したという意味で、この科学の創始者なのである。ロッツェの「医学的心理学」は1852年に、ヴントの「生理学的心理学の基礎」は1874年に出版された。しかし、その間にフェヒナーが登場し、その理論的構築とその方法は、電気学者や化学者による自然科学の原理についての同様の議論の扱い方の正確さを示しており、感覚状態の強度に関するE・H・ウェーバーの発見を普遍的に記述しようとする数式を発表した。フェヒナーの「精神物理学の要素」は1860年に出版された。

 

 この新しい方法の実際の展開は別として-後で述べますが-、その方法としての有効性が否定されてきたところでも、心理学の一般的な概念を深く修正しました。今挙げた著作が出版されて以来、心理学の概念に革命が起こったというほかはない。この革命の動機の一つは、このようにドイツからもたらされたものである。もう一つは、この革命には二つの大きな段階があるのだが、イギリスの思想家たちによるもので、ハーバート・スペンサー(『心理学原理』1855年)を筆頭とする進化論者たちである。この二つの影響は、アメリカにおける今日の心理学と昨日の心理学との間に、容易に明ら かになる二つの大きな対照点に見られます。後者については、前述したとおりである。その主な特徴は、第一に、いわゆる「能力心理学」としての特徴であり、第二に、私が「レディメイド」と呼んでいる意識観-専門的には「直観」的意識観-を保持している特徴である。これらの性格に反して、現在の心理学は「機能的」であり、精神的能力よりもむしろ精神的「機能」を保持し、この機能は直感的というよりも「遺伝的」であると見なす-機能は「既製」ではなく「成長」するのである-。

 

 もう一つの対比のポイントも、同様に分かりやすい。現在の議論における「遺伝子」の視点は、古い「直感」の視点と対立している。心は、子供からの人間の成長と、意識的存在の規模における人間の位置の両方に関して、それがそうであるように成長したと見なされている。精神的事実の理解は、その起源と性質の理解に求められる。そして、意識における「直観的」信念の妥当性や価値の問題は、心がどのようにしてそのような信念を持つようになったかという問題に従属させられる。

 

 この2つの対比は、アメリカにおける一般哲学の進展によって、さらに明確になってきた。精神的解釈の統一を求めるのは、自然主義的進化論だけではない(John Fiske, ¢Outlines of Cosmic Philosophy, 1874 ; Thompson, 'System of Psychology,' 1884)。同じように切迫した要求は、進化論の提唱者と同様に熱心に自然の系列の連続性を求める観念論的メタ物理学からも出されている。 ヘーゲルの影響は、グリーンの著作で解釈され、後にはケアードの著作で解釈されたが、この変換をもたらすのに強力なものであった。意識の遺伝的発展に関しても、同じような力の結合が実現可能であることは容易に理解できるが、新しい観念論者は、現代の心理学で高まっているこの傾向を正当に評価していない。

 

 現在の一般心理学の議論では、精神的な「機能」の解釈の問題で明暗が分かれている。両者は、遺伝子研究の完全な自由と分析・実験の資源を同じように主張している。一方、「連合主義者」は、イギリスの経験主義者の伝統を受け継ぎ、精神機能を客観的世界における通常の力の相互作用と類推して解釈する。特別なトピックに関する独創的なモノグラフは別として、今日、心理学者や哲学の学生たちの間で、この主要な問題に目を向けていない心理学の著作はあまり注目されていない。ロッツェとヴントの著作は、心理学の問題をこのように一般的に述べる方向で、アメリカ人に大きな影響を与えた。特にロッツェの哲学は、スコットランドからの継承により、アメリカで長く普及してきた以前の神学的教条的見解を、理性的かつ批判的現実主義に置き換えている。

 

 現在の心理学の文献については、ライプチヒ大学のクルペ教授による一般心理学に関する最新のドイツ語の著作、それ自体が現在の知識の状態を完全に代表している-* Grundriss der Psychologie から自由に翻訳された次の一節を引用するよりほかにない(27 8ページ)。) .現代の心理学の文献については、ライプチヒ大学のクルペ教授による一般心理学に関する最も新しいドイツの著作、それ自体、現在の知識の状態を完全に代表している-「Grundriss der Psychologie」(27 8頁)から自由に翻訳した次の一節を引用するより他にないだろう。) .

 

  "19世紀の半ばになると、ドイツでは実験心理学と精神物理学が始まった。ヘルバルトは身体が心に及ぼす三重の影響を認めていたが,生理学のデータの利用を徹底的に開始したのはロッツェであった。ロッツェは、確かに、古いドイツの作家のやり方で、ある種の形而上学的な説明から仕事を始めており、普遍的な精神と身体の並行関係の認識からは非常に離れている。しかし、彼は精神過程の神経的条件について話すことをためらわず、正確な知識が不足しているところでは、価値のある仮説を提案する幸運に恵まれたのである。しかし、実験心理学の本当の基礎は、G・T・フェヒナーによって築かれた。彼は、精神的プロセスと肉体的プロセスの間の機能的関係の概念を、徹底して実行しようとしたのである。彼がこの関係に与えた数学的形式は成立しないが、彼が導入した新しい概念、彼が定式化し適用した手続き方法、彼が手にした材料に施した作業、そして彼自身が行った観察と研究によって、彼は心理学の正確な科学に特別な衝撃を与えたのである。. . . 実験と心理・物理の結合は、ヴィルヘルム・ヴントが古典的な「* Grundziige der Physiologischen Psychologie」(1874年、第4版、1893年)でついに達成したのである。この発想の統一と、すべての精神現象の包括的な取り扱いによって、......彼は現在の言葉を作った。... 彼は現在の「近代心理学」という言葉を適用できるようにした。. . . 1879年にライプツィヒに研究所を設立し、彼の研究所での研究の発表を中心とした雑誌『フィロソフィー・スタディーン』を創刊したヴントは、実験心理学の育成にさらに重要な弾みをつけた。

 

“さらに、ごく最近の著作を挙げることができる。これらは、体系や理論においてヴントと互いに多かれ少なかれ本質的に異なるものの、その性格上、ヴントがこうして創設した現代心理学に属するものと見なされなければならない。ヘフディング(Héffding), 'Psychologie in Umrissen', 2d ed., 1893, German translation from the Danish (English translation, 1891); ラッド, 'Elements of Physiological Psychology', 1887; セルジ, 'La Psychologie Physiologique' (translation from the Italian, 1888); W. ジェームズ, 'The Principles of Psychology', 1890; ジーエン, Leitfaden der physiologischen Psychologie (1891 ; 2d ed.., 1893);ボールドウィン, '心理学' (1985), '生理学の基礎',1994; '物理学' (1995)'であり、これらは、ヴントが設立した近代心理学に属するとみなされる。1893); Baldwin, ¢ Handbook of Psychology,' 1891 (2nd ed.; 1sted., 1889-90); J. Sully, 'The Human Mind,' 1892.

“また、同じような心理学思想の流れを反映している定期刊行物にも触れておきましょう。W・ヴント編「Philosophi sche Studien」(1~8巻、1883 ff)、G・S・ホール編「The American Journal of Psychology」(1~5巻、1887 fl)、H・エビングハウスとA・コーニグ編「Zeitschrift fur Psychologie und Physiologie der Sinnesorgane」(1~3巻、1800 fI.".

 

 現在の心理学運動において、アメリカの学生がどのような役割を果たしているかは、クルペが引用した7つの著作のうち3つがアメリカ人によるものであり、それらに加えて「心理学」(Psychology. Descriptive and Explanatory) (1894年、G.T.ラッド著)があることからも明らかであろう。ラッド(G. T. Ladd)の「Psychology: Descriptive and Explanatory」(1894年)、そしてJ. McK. キャッテルとJ.マーク・ボールドウィン編『心理学評論』(第1巻、1894年)である。- また、最近のフランスの重要な著作として、A.フイエの「La Psychologie des Idées-Forces」(1893年)がある。アメリカの大学における心理学の位置づけについては、さらに以下の項で述べる。`

 

 実験心理学への重要な貢献としては、ドイツやアメリカで出版された一連のモノグラフや研究論文のほかに、ヘルムホルツ「Physiologische Optik」(1867、第2版1886、フランス語訳)、「Tonempfindungen」(1863、英語訳)、シュトゥンプ「Tonpsychologie」(1883-90)、ミンスターバーグ「Beitrige zur experimentellen Psychologie」Part I-IV (1889-93) などがあげられる。

 

 精神病理学的な側面からの貢献は、近年、外国人研究者と心理学者の間で得られている「接近」のために重要なものとなっている。ピエール・ジャネットの「精神自動化」(1889)、「ヒステリックの精神状態」(1892-93)、ベルンハイムの「暗示療法」(英訳、188g)、「暗示の研究」(1892)は、最も重要な著作である。これらに加えて、リボーの著作である「意志の病」(英訳(sth French ed. 1888))、「記憶の病」(英訳(sth French ed., 1888))、「人格の病」(2d ed, 1888; English trans lation, 1891)と共に、催眠術と人格の異常というテーマで「Revue Philosophique」(Th. Ribot編、1-xxxv1巻、1876 fl. )に掲載された多くのオリジナルな寄稿があり、アルフの「Les Alté. rations de la Personalité(1893)」で一部がまとめられている。Binet.

 

 さらに、記述と分析の観点から、イギリスの伝統に則った心理学の扱いが、ウォードによって『ブリタニカ百科事典』第10版の「心理学」の項目で進められている。この種の研究は、G. Croom Robertson編『Mind: a Journal of Psychology and Philosophy』(1-xv1巻、1876 f. )やG. F. Stout(新シリーズ、1-111巻、1892 付)に発表の場が設けられている。

 

 最後に、意識の遺伝的な扱いは、スペンサー「心理学の原理」1855年(第3版、1880年)、ロマネス「人間の能力の起源」1884-1888年モーガン「動物の生命と知性」1891年、ガルトン「人間の能力に関する探究」1883年、「自然相続」1889年の著作によって進展している。

 

 

2. 実験心理学の方法と主な領域

 

 今が科学の時代だと言うのは、今や陳腐なことを繰り返すだけで、哲学やヒストリーを学ぶ者が語る必要のないことである。科学の時代であるのは、科学への傾倒と科学における成果の時代だからです。しかし、今が科学的方法の時代であると言うのは、全く別の話です。かつての時代にも、科学への傾倒と科学における成果はあったが、あえて言えば、科学的方法を時代として実現した時代はなかった。しかし、新しい方法があまりにも一般的であり、私たちの習慣となっているため、歴史的な研究によってのみ、それが新しいものであることを理解したり、過去の哲学の英雄たちの真剣な努力と不断の忍耐が、いつの時代にも当然要求する、古いものに対する知的同情の度合いにまで自分を導くことができるようになるのであります。

 

 私は、現代を「科学的」という言葉で特徴づけるにあたり、その方法について、哲学、政治、文学、そして自然の調査において当てはまることを言おうとしたのであって、そのような方法の実現が最も困難な思想の部門についてだけ言及する。科学と哲学が共通の船に乗り込み、共に知識の宇宙を航海するとき、科学的な東方 に向かわない哲学的思想家の一群や一派は、上流に向かって舵を切っており、存在しない だろうと私は考えています。科学も哲学も単独では決して成功しないというのが、科学的方法と同じ信念の一端だからです。このような前進は、どんなに苦労して勝ち取ったものであっても、また、教条主義者がどんなに声高にその正当性を否定しても、哲学が現在の半世紀の間に、批判的・経験的手法の参入に対して扉を開いてきたこと、そして、すでに得られている結果は、将来の収穫の大きさを示す証拠であることをここに示すだけで十分であろう。

 

 一般的な哲学では、科学的方法と呼ばれるものは、前述したように、経験的方法 と批判的方法という二重の意味でよりよく知られています。振り返ってみると、現在、私たちが哲学の分野で喜ぶべきことは、ヒュームとカント に代表される2つの伝統にほぼ等しく起因しています。現在の理想主義が、現代において考慮するに値するものである限り、その重荷は、カントの仕事を浄化し、保存することである。そして、同じ制約のもとで、経験主義の負担は、彼自身が価値ある気性と考えた唯一の武器でカントを論駁することである。戦いはこのように至近距離で行われ、両者の間には科学的手続きという共通の輪が投げかけられる。

 

 心理学では、現代の変化が最も顕著に表れている。ここでは、実際の知識部門が、新しいクラスの人々に治療のために引き渡され、科学的方法への要求が顕著になっています。心理学者は、一般的な哲学とその歴史に精通していることや、体系に対する鋭い論理的批判ができることではもはや十分ではありません。新しい問題にうまく対処し、高度な哲学者の耳目を集めるには、事実に基づき、帰納的な手順で推論することが必要なのです。つまり、哲学を思索として心理学に持ち込むのではなく、心理学を事実として、生理学、民族学などとの関連で、一般哲学に持ち込まなければならないのである。

 

 この変化と一般理論への影響を説明するために、空間という概念に関する最近の議論を、その初期の、より思索的な扱いとの比較において引用することができる。ジェイムズ、ヴント、ベイン、スペンサーの推論は、カントやそれ以前の人々の議論とは本質的に異なるので、両者の間に共通項を見出すことはほとんど不可能である。カントの結果を受け入れる人の中で、現代において彼の理由に大きく依存している人はいません。生理学者も心理学者と同様に、今日、この問題について多くのことを語っており、思索的哲学者はその両方を認識しなければならない。

 哲学におけるこのような今日の傾向は、化学的な図式によって「沈殿」傾向として表現することができます。私たちは、このような処理が可能なすべての問題を、沈殿物、つまり心理学的沈殿物として底に投げ込み、心理学者に渡して積極的に処理させようと努力し、そして成功しているのです。我々のデータが90分の1の水溶液(解釈すれば推測を意味する)にとどまっている限り、それを科学的に取り扱うことは困難であった。現在の心理学は、存在論の有用性と必要性を認めながらも、その位置づけを以前よりも明確にしなければならないと主張し、思索的な溶媒とは別に、堆積物、残留物、沈殿物を確保することができれば、それは肯定的科学と真実にとって大きな利益となるとしている。

 

 いわゆる「新しい心理学」の底流にある考え方のひとつに、測定という考え方がある。このような資源が心理学者に否定されている限り、心理学者は説明と分類の機能においてのみ科学者と呼ばれ、説明と構築のより重要な機能においては科学者と呼ばれなかったのである。そして、心理学的事実に対する測定の適用を正当化するのは、理論的な考察からではな く、哲学が不可能としたことを実現しようとする実践的な試みからなのです。つまり、実験が望まれ、かつ唯一の「試薬」であったのです。現在では、実験を意識に応用することについて理論的な正当化がなされているのは事実ですが、それは実際の結果によって示唆されたものであり、たとえば心理学の科学は不可能であるというカントの最後通牒の影響を妨げるには十分な量ではありませんでした。

 

 この関連での実験とは、神経系とそれに伴う意識の変化についての実験を意味する。意識の状態を直接的に実験しようとする努力は、以前から行われていた。デカルトはそのような努力と、彼の感情論の中で、身体を通しての心への接近を示唆したことで、称賛に値します。しかし、このようなアプローチを認知された心理学的方法の位置づけにまで高めることは、デカルト、カント、あるいはこの半世紀の間に神経系の生理学において目覚ましい進歩がなされる以前に生き、理論化していた他の誰にとっても不可能であった。そして、現在でも、最終的には生物の側からの調査を認めることになる多くの問題は、脳と神経の不明瞭なプロセスに新しい光が当てられるまで、まだ保留されたままなのである。

 

 少し考えてみると、この分野での実験の利用は、現在一般に認められている2つの仮定に基づいており、少なくとも結果によって経験則として正当化されていることがわかります。この2つの仮定は、いずれも物理学者が自分の材料を扱う際に行うことに慣れているもので、心を有機的プロセスから完全に独立したものとして考え、話すことに慣れている人々には斬新に聞こえるかもしれませんが、その基本的重要性を示すには、これらの仮定を述べれば十分でしょう。これらの前提の第一は、私たちの精神生活は、常に、どこでも、神経の変化のプロセ スを伴っているということです。このことは、効果を解釈することによって、心から体へ、あるいはその逆へと移行させるあらゆる方法に必要であることがわかる。精神的変化と肉体的変化のどちらが原因でどちらが結果か、あるいは両者が未知の原因の結果であるかは重要ではなく、そのような問題を考えることは、私が「思弁的溶媒」と呼んでいるものを導入することになる。この二つは常に一緒に存在し、一方の変化は他方の変化も表す記号で示されることを知っていれば十分である。第二の仮定は、第一の仮定に基づくもので、すなわち、心と体の間のこの関係は一様である。このことは、一般的な帰納法において「自然の均一性」と呼ばれるものを意味する。その条件の操作において繰り返しの実験を認めるほど十分に安定した関係は、その限りにおいて均一である。なぜなら、そのような実験の結果は、同じような状況下での他の実験の結果について、先行する可能性を与えないからである。したがって、実験心理学は、対応関係が、共存であれ因果関係であれ、いったん精神的変化と神経的変化の間に明確に作り出されれば、同じ条件下で同じ実験を繰り返しても、それが維持されなければならないという前提の上に成り立っている。

 

 この2つの仮定がなされると、意識の事実に対する物理的なアプローチの可能性が一挙に高まります。その結果、注意の活動が規則的で正常な状態であれば、神経の外部刺激という観点から、そのような事実を相対的に測定することができる。

 

 さらに、このような実験手段は、神経刺激が外部からの刺激によるものか、生体自体の異常な状態から生じたものかによって、人工的な条件下でも自然条件下でも利用できることが明らかである。一方、脳や神経の病気の場合は、すべて無限の観察の機会を与えてくれます。異常な兆候は、病気の器質的障害による変化です。唯一の難点は生理学的なもので、大脳の状態が、それを説明するために使われる精神状態と同じくらい不明瞭である可能性があることです。このような、内部の有機的な変化によって精神が変化するケースはすべて、生理心理学という名前で分類されます。神経の生理学と病理学、錯覚、幻覚、精神疾患、催眠術に関連するすべての問題が含まれる。

 

 一方、皮膚、筋肉、特殊感覚などの感覚器官を、以下に説明するような人工的な条件下で、普通に刺激する実験もあります。これが実験心理学です。このように、現代の実験心理学は2つの大きな部門に分かれています。正常なものが異常なものに先行するのが正しいので、歴史的に興味深い結果を多少なりともざっと見るにとどめて、外部実験に基づく研究の流れを考えてみるのがよいだろう*-。

 

 

3. シカゴの心理学の紹介

 

 さて、コロンブス万国博覧会における実験心理学分野の展示物について考察してみたい。社会科学、道徳科学、理論科学など、進歩の大部分が抽象的で非物質的な部門は、その成果を目に見える形で示すことができないため、これまではその成果がより実践的な生活や教育、施設に具体化されて初めて世界の大博覧会に姿を現してきたことは明らかである。国民生活のより理想的で精神的な側面は、まさに一般大衆の教育に欠落している側面であり、現代文明の状況を調査する上で、最も省かれてはならない側面だからである。しかし、そうなのである。したがって、心理学が実験的になり、その問題や結果を、図や物質的な表現を可能にする形である程度述べることが可能であることが分かって初めて、心理学が「展示」できるようになったことが容易に理解できるようになる。したがって、シカゴ万国博覧会で心理学が示したのは実験的な側面であり、その問題や方法については、先に述べたように概略を説明したとおりです。

 

 心理学の科学的側面に関する展示は、後で述べる教育的側面とは別に、次のような順序で並べるとよいだろう。

 

(A)ハーバード大学のF・W・パットナム教授が主任を務める人類学部門が、ウィスコンシン大学のジョセフ・ジャストロー教授の直接指導のもとに行った収集展示で、稼働中の心理学実験室とその付属品すべてからなるもの。

 

(B)ドイツ教育展で「心理物理学」の見出しで展示された機器群。

 

(C) 'Deutsche Gesellschaft fir Mechanik und Optik'の一般展示に展示されている機器。

 

(D)特定の楽器メーカーの個人的な展示品。

 

(E)単独の大学による展示。ペンシルバニア大学、イリノイ大学の展示。

 

これらを順番に簡単に考察していくかもしれません。

 

 (A)人類学(民族学)部門が集めた実験心理学研究室-この研究室は、この分野における世界の進歩の状況を国際的な博覧会で展示する初めての試みとなるものである。この研究室は、人類学と神経学の研究室と合わせて、19世紀の心理学的進歩の歴史的な指標となるもので、その主な特徴は次のとおりである。この研究室の一般的な特徴は、所長であるジョセフ・ジャストロー教授の言葉以上に説明することはできない*。

 

 心理学研究室-* この研究室の目的は、より初歩的な精神力の範囲、精度、性質をテストする方法を説明し、これらの力の発達に影響を与える要因、その正常および異常分布、および互いの相関関係をさらに研究するための資料を収集することである。このように研究室は、大学のように特別な研究、心理学の実演や指導のためではなく、テストの収集のための実験室として設計されている。身体的人体測定では人体の主要な比率を体系的に測定するように、精神的人体測定では、精神生活が条件づけられている基本的な作用様式を慎重に検討する。どちらの場合も、最初の目的は、測定された質の正規分布を確認することです。このことを確認した上で、各個人は各検査形式のチャートまたは曲線上に自分の位置を見つけ、そのような一連の比較から、自分の熟練と欠乏の重要な推定値を得ることができるのである。この種の精神的なテストには、物理的な測定が比較的自由であるにもかかわらず、困難が伴うことを見落としてはならない。私たちの精神力は多くの変化や変動にさらされています。テストの新しさが、テストされる能力の最良の発揮を妨げることがよくあるので、非常に短い期間の練習で、より一定で重要な結果を生み出すことができるかもしれません。疲労や体調も、ばらつきの重要な原因である。現在の実験室の環境では、これらの異論を最小にするために必要な時間と設備を確保することは不可能である。このような障害は、統計的な結果の総合的な価値よりも、個々の記録の価値を損なうものである。この調査にはまだ多くのことが残されており、どの段階においても興味深い問題が未解決のまま残されている。しかし、これまで行われてきたことは、さらなる研究の重要性とその価値を強調している。正常な能力が判明したときに考慮すべき問題は、さまざまな能力の年齢による成長と発達、どのようなタイプの能力が早く発達し、どのような能力が遅く発達するか、その成長はどの程度年齢によって、またどの程度教育によって条件づけられているか、また、さまざまな年齢における男女の差、人種、環境、社会的地位の差なども同様に決定されなければならない一般的問題である。身体的発達と精神的発達の関係、ある種の精神力と他の精神力との相関関係、特別な訓練の効果など、これらは多くの実際的な応用とともに、より顕著な問題を形成し、ここで取り上げるようなテストがその解明に貢献することになる。個人は、自分自身の記録に対する興味に加えて、一般的な統計結果に貢献するという満足感を得ることができるのである。

 

 (B)、(C)、(D)、(E)(B)ドイツ教育局、(C)ドイツ機械光学研究所(D)個人の楽器製造業者、(E)別々の大学の展示物。 -B)と(C)の2つのドイツの機関は、人類学部門の集合展示にドイツの工房から送られた特別な器具と合わせて考えると、全体として、心理学的実験に必要な繊細な器具の製作に現代の機械技術が適用されていることを示す最良の指標と考えられるものを送っている。これらの器具は主に、実験生理学、物理光学、音響学、電気学などで使用されている、よく知られた原理や、しばしばよく知られた装置を応用したものである。ドイツ機械光学協会が展示した器具は、ほとんどすべて心理学とこれらの科学に共通するものである。ドイツ教育展示会の展示品は、ライプチヒの実験室で有用とされた特別なアレンジが主であり、ドイツにおける科学の真の進歩を示すには非常に不十分である。しかし、これらは歴史的に非常に興味深いものである。このコレクションは、ドイツの機器メーカーが人類学部門の集合展示に関連して作成したものよりも、はるかに完全ではない。この関連で、ヴント教授が公式本『ドイツの大学』(W. Lexis編、1893年)の中で述べたドイツにおける実験心理学の説明は、この科学の現状とドイツの大学での位置づけを示すものとして考えると(おそらく著者はそう考えることを意図していない)適切ではないことに触れておく必要がある。

 

  (D)心理的活動の概念を完全なものにするために、個々の形態の個人的な展示に注意する必要がある。フランスの出品者は、ドイツ人のように組み合わせなかったので、効果的にも地域的な位置づけでも負けてしまった。しかし,人類学展示館の北端に並べられた外科用,物理用,心理用の器具のケースに見られるように,最も優れた仕事の多くはパリで行われているのである。この種の展示品の詳細については、出品者のカタログ(たとえばパリのCh. Verdinのカタログ)を調べれば、前述の他のコレクションの統合カタログが役立つのと同様、参考になるであろう。ドイツのメーカーは、大学の大きな研究室と連携して仕事をすることが多かったので、物理学や心理学の特定の問題を解決するための特定の学生のニーズによく応えてきた。一方、フランスのメーカーは、臨床医学や実験生理学の側からの需要がより顕著であることに気づいた。

 

 (E)ペンシルバニア大学とイリノイ大学の大学別展示は、それぞれリベラルアーツ館とイリノイ州庁舎に設置された。前者の目的は、少数のテーマに限定した実務的な研究室を紹介することであった。しかし、反応時間や形の美しさに関する実験が行われており、来場者にとって有益であった。また、この装置の設計者であるライトナー・ウィトマー博士によって、色の混合比率を運動中に変化させることができる複雑なカラーホイールと、新しい機能を持つ図形運動装置の2つの新しい装置が展示された。

 

 イリノイ大学の展示は、民族学部の主なコレクションにも含まれている楽器が中心であった。担当は同大学のW.O.クローン教授である。

 

 

4. 教育

 

 心理学の新しい研究の教育的側面は、非常に重要である。そのうちのひとつは旧来の心理学が果たそうとしたものであり、もうひとつは果たすことのできないものであった。それは、大学のカリキュラムの中で、学問の一部門が果たすべき機能、すなわち学部の規律と指導、および大学院の研究規律の両方において、自由な大学文化の要因として位置づけられるべきである、というものである。

 

 旧来の心理学は、特にアメリカでは、先の章で指摘したような状況に阻まれ ていましたが、私が言うように、学部生を指導することを目的としていました。哲学と神学は、「精神科学」に対する要求の限りでは、どちらも独断的で不寛容なものでした。しかし、大学院の学問的機能は、アメリカでは、教授陣の心理学やそれに基づく哲学によって、いかなる意味でも果たされることはなかった。

 

 心理学の第二の大きな教育的機能は、次のようなものである。それは、心と体が一体となって成長し、相互に依存し合っているという見方を提供することによって、教育理論を形成し、それに情報を与えることである。教育とは、完全な人格を最も好ましい条件の下で発展させる過程であり、心理学は、その成長のさまざまな段階におけるそうした人格の性質と、その完全な発展を最も健康的かつ頑丈に養うことができる条件を決定することを目的とする科学である。したがって,心理学の最初の任務の一つは,教育制度を批判し,あらゆる場所の教育における「よりよい方法」を指摘し,よりよい方法があらゆる場所で採用されるまで休む暇もないことである。実際、その方法と結果によって、この義務の実現から切り離されてしまった。そこで、現代の心理学が、このような取り組みにどのように取り組んでいるかを紹介することが、私の目的である。

 

 A. 研究分野としての心理学-1 この点から始めるのは、実験的な考え方が広まっているすべての国において、心理学の現状について最も顕著な事実であるからです。おそらく学生や一般読者は、心理学に関連して、他のどの分野よりも「研究」について耳にすることが多いでしょう。そして、このような研究能力の主張と「知識への独創的な貢献」の話が、まだ滑らかな顔をしていて、一般に大学の業務に全く経験のない教授によって行われているのは、奇妙であり、実際、他の学科の職員にとっては愉快なことである。知識に貢献する物理学者はきわめて稀ですが、『新しい心理学』には、有能な大学教官1人につき2人の研究者がいるのです。

 

 第一に、大学という機能が、大学院での研究を奨励しているアメリカの数少ない教育機関の大学院研究機能とほぼ一致していること、第二に、この分野の実際の状況が、古い科学分野よりも研究が比較的困難でない問題であるようなものであることです。というのも、心理学者のより真面目で哲学的な人々は、この新しい方法の最初の成果が革命的な価値を持つとは思っていないからである。また、これまでに発表された研究は、この方法がより良い管理下に置かれ、それを適用する人々がその使用について十分な規律と訓練を受けたときに何ができるかを示唆するに過ぎないからである。

 

 したがって、私の考えでは、この国の大学の新しい研究所の運営に見られる「研究」への非常に顕著な傾向は、知識への貢献というよりも、むしろ、この国中の心理学の将来の指導者に訓練を提供するという点で大きな価値があると思います。これらの研究室の学生の多くは、実験心理学が提供されていない、あるいは哲学の教授によって批判されるような大学から集まっている。彼らの成果を活用することは、その解決に無知、粗雑さ、個人差の問題が適切に含まれる場合を除いては、明らかに不可能である。

 

 しかし、学部の学問に代わる学問として、大学院の学問は必要不可欠である。このことは、大学の他の理系学部における大学院の機能でもあります。しかし、心理学においては、以下に述べるように、実験心理学の学部教育は、学士課程に加えられているいくつかの大きな教育機関でさえ、まだ未熟な状態にあるため、この点が強調されるのです。

 

 大学院の学問分野を主な職務とする者が実験心理学の講座を担当することは、一部の機関では学部での職務が認められているが、もはや目新しいことではない。海外では、ドイツの大学がこのような指導を率先して行っているが、講師は一般に哲学や心理学の教授であり、実験的なコースを提供している。研究所の設立は1878年ライプチヒの研究所(ヴント教授)から始まり,現在ではベルリン(エビングハウス教授,現在はブレスラウ),ゲッティンゲン(ミイラー教授),ボン(マルティウス教授),プラハ(ヘリング教授),ミュンヘン(シュトゥンプ教授,現在はベルリン),ハイデルベルク(クリペリン教授)に見られるようになった。他のヨーロッパ諸国では、1886年にパリのカレッジ・ド・フランスに実験心理学講座が開設され(リボー教授)、1891年にはソルボンヌ大学の高等学院に「生理心理学研究所」が開設された(ボーニ教授とビネ教授)。その他、ジュネーブ(フルノワ教授)やローマ(セルジ教授)にも大陸的な基盤がある。フィレンツェでは、心理学と犯罪人類学の研究所と博物館が最近設立された(マンタガッツァ教授)。イギリスとその領地では、分析的な方法が実験的な方法に取って代わられたわけではない。カナダだけでも、トロント大学ボールドウィン教授、現キルシュマン博士)に、設備の整った研究室が1891年に開設されたが、その少し後には、イギリスのケンブリッジ大学でこの種の研究を始めるために小額が確保された。しかし、講義は生理学者(1804年、ロンドンのユニバーシティ・カレッジのヒル教授)と心理学者(1893年マンチェスターオーウェンズ・カレッジのアレキサンダー教授)の両方が行っている。日本では、東京大学(元良教授)がそのような研究室を持っている。

 

 米国ではこの治療法の普及が急速に進み、講座や研究所の設立が異常に進んでいる。最初の研究室は1883年にジョンズ・ホプキンス大学(ホール教授)に設けられたが、その後閉鎖された。続いて1888年ペンシルベニア大学に、研究室を備えた初の心理学講座が設置された(キャット・テル教授)。ここで初めて学部の実験指導が行われた。その後、コロンビア大学(キャッテル教授)、ハーバード大学(ミインスターバーグ教授)、プリンストン大学ニュージャージーカレッジ(ボールドウィン教授)に、実験心理学だけの講座が設けられ、一般心理学の教授職も並存している(ジェームス教授)。心理学全体、あるいは教育学に関連した教授職は、クラーク大学(ホール教授とサンフォード教授)、ウィスコンシン大学(ジャストロー教授)、コーネル大学(ティッテナー教授)、シカゴ(ストロング教授)、インディアナ(ブライアン教授)、イリノイ(クローン教授)、スタンフォード(エンジェル教授)、カトリック大学ワシントン(ペース教授)、ウェルズリー大学(カルキンス教授)などにある。また、イェール大学(ラッド教授)、ブラウン大学(デラバラ教授)、ミネソタ大学(ハフ教授)、ネブラスカ大学(ウルフ教授)、ミシガン大学(デューイ教授、現在はシカゴの教授)など、まだ別の教授職が設置されていない機関にも、同様の設備が整っています。

 

 このような研究室の性質は、すでに述べた大規模な展示に示されている。ハーバード大学の研究室は最も規模が大きく、設備も整っており、大学院生が最も自由に利用している。ハーバード大学のパンフレットには、研究室にある装置のカタログがあり、図版、書誌、研究中のテーマのリスト(23項目)も掲載されている。しかし、大学では、この科学のために用意された部屋は、たいてい不十分で、適応していない。このような研究室で、特にこの研究の必要条件を考慮して計画、建設されたものは、トロント大学のものだけで、その計画と説明は『科学』XIX, 1892, p. 143に掲載されている。アメリカでは、この研究のために最も大規模な施設が用意されているのは、おそらくイェール大学のもので、15室の部屋がある家がこの研究のために使われている。エール大学の研究室については、『サイエンス』XIX, 1892, p.324に記述がある。

 

 以下の2つの機関では、最近、独自の調査を行うためのテーマが設定されており、これらの財団で得られる卒業研究がどのような種類のものであるかの典型とみなすことができる。コランビア(1893-4年)。残像-刺激の時間、強度、面積の関数としてのその持続時間と性質」(「残像-刺激の時間、強度、面積の関数としてのその持続時間と性質」)。"強度の差の尺度としての知覚の時間、時間、強度、面積の相関" "学童の知覚と注意" プリンストン大学(1893-4年): 「視覚的図形の大きさに対する記憶の漸進的な薄れ" 「反応時間による記憶タイプの調査" "網膜におけるサイズと色のコントラスト効果" 「回転の錯視 *

 

 一般心理学の取り扱いは、わが国の大学院教育においても、かつてないほど十分である。講義やゼミナール方式による指導は、あまり気取らない大学をすでに卒業した学生を大量に集めている。特にアメリカでは、近年非常に多くの体系的な論文が出版されていることが、このことに貢献している。この問題で圧倒的な影響力を持つのは、心理学的探求者の盲腸となった作品、Wm. James教授の「心理学の原理」である。

 

 B. 学部での学問としての心理学 - 主要教育機関の学部カリキュラムにおける心理学の位置づけもまた、注目すべきものである。それは、この学問の目的が自己知識と自己制御であると認識されたこと、そして第二に、実験的な教育方法が導入されたことである。

 

 こうした傾向の第一は、哲学や心理学の講座の受講者の資格や訓練に著しい変化が見られることです(現在も進行中)。小さな教派の教育機関でさえ、東部の大きな財団や進歩的な州立大学に倣って、科学の他の分野では本物のナチュロフォースカーの第一条件である、事実の厳格な解釈と事実の探求の訓練を受けた人材を求めるようになってきているのである。宗教的・倫理的真理のためと思われながら、間違ってとらえられた、この重要な領域である心を外部から保護することは、多くの機関でその日を迎えた-少なくとも、調査者や教師が、事実が支持しない仮説に異議を唱えたり、よく観察された事実が支持する仮説をどんなに新しく述べる自由を完全に否定している。その結果、哲学と心理学は、現在、大学の自主管理学科となっている。したがって、心理学のコースは、その歴史と結果について学生を十分に指導することと、「物理」「自然」科学とは対照的に「道徳」科学を追求することが間違いなく与える高い規律との両方を考慮して配置されているのである。

 

 第二に、実験的な教育方法の導入が始まりました。これは、実験心理学と生理心理学の主要な事実を教室で実際に実演し、学生同士が実演したり、特定のテーマでは動物の解剖された神経系で実演したりする機会を追加することである。その結果、若い学生にとって、この科目がより具体的で興味深いものとなり、それに応じて、後年、哲学の木のすべての枝が選ばれるようになるのである。このように内観と実験観察という2つの機能が統合されたことで、この部門は、大学生活の総合的な規律において、ユニークかつまだ未開発の価値を持つようになったと私は考えています。

 

 このような学部レベルのサービスは、それを提供しようとする科学自体が十分に発展し、十分に分類されない限り、十分に実現できないことは明らかである。したがって、現実の状況は、励ましにはなっても、熱意にはならない。このような教育方法は、現在のところ、この分野の本来の研究者以外には不可能であることは明らかであり、実際、彼らはそれぞれ自分自身の法則である。心理物理学的な実験や心理学的な実験でも、重要性や価値が明らかで、クラスでの実演に使えると誰もが認めるようなものは、ほとんどない。さらに根本的な欠点は、単一またはグループ化された実験によって適切に実証できる原理がまだほとんど確立されていないことである。さらに、シカゴで展示された器具の中には、訓練を受けていない人が使用したり、説明したりするのに適したものや便利なものがほとんどないという事実もあり、この困難は部分的には明白になっています。実験心理学の成果を一般心理学のより初歩的な原理と一致させ、専門家ではない指導者でも使えるような簡単な装置を提供し、初級クラスの教科書を用意することによって、この必要性を満たすことは、実験心理学が教育に負うべき義務である。今日、この目的のための教科書は存在しないが、このような「実験心理学コース」が、アメリカ人作家(コロンビア大学のキャッテル教授とクラーク大学のサンフォード教授)によってすでに発表されていることは、喜ばしいことである。

 

 ブラウン大学ウィスコンシン大学ミシガン大学(他の大学は言うに及ばず)の最新のカタログを参照すれば、まだ学部生が中心である教育機関で提供されるコースの性質がわかるだろう。

 

 C. 最後に,教育学と心理学の関係について,実践的な教育における心理学の位置づけを論じた後で,一言述べておきたい。科学としての教育学は、正常で文化的な人格の発達に心理学的原理を適用することを扱っている。このような科学の基礎は、したがって、心理学によって提供されなければならない。教師は、身体だけでなく心にも関わり、主として身体を通して心にも関わるので、理論教育に対するこの義務が主に帰結するのは、実験または心理物理学なのである。このような教育学の科学が存在しないことは言うまでもない。このテーマについて、これまでアメリカで出版された本のほとんどは、その名前は数え切れないほどあるが、真剣に注目するに値しないものである。さらに、ドイツの先験的な「教育学のシステム」の輸入は、教師の期待や愛情を覚醒させることを主な目的としており、教師がその仕事をする上で経験的な援助を与えることはあまりない。しかし、この博覧会の年に「子供の勉強」、「自己活動」、「知覚」、「科学的方法論」という言葉が流行し、どの教員会議でもこのようなテーマに関する論文が何時間も聞かれていることは、心強いことである。

 

 現代の心理学は、この義務も自覚しつつあるのだが、それを果たすにはまだほど遠い。子どもの研究は、ある程度冷静かつ正確な方法で行われている。学童の成長に関する統計的な調査、学童期の疲労の原因と対策、書き方、読み方、暗記の自然な方法などが実施されている。このような調査の結果は、シカゴの人類学教室で展示されることになった。学校衛生に関する問題は、現在初めて理性的に議論されるようになった。さまざまな気質や好みを持つ生徒のニーズを考慮し、さまざまな学習分野の相対的な価値が評価されている。そして、教師である心理学者たちが問題を設定し、方法を確立することで、現在方向性の定まっていない、あるいは誤った方向にあるすべての熱意が、有益な方向に向けられることになる。この国で情報と影響力をもってこの仕事に身を投じている人々のうち、現在24巻まで刊行されている「国際教育シリーズ」の編集者である米国教育庁長官のW・T・ハリスと、「教育神学校」(1-111巻、1891-4)の編集者でクラーク大学学長のG・スタンレー・ホールを挙げることができよう。また、コロンビア大学のN・M・バトラー教授が編集する「エデュケーショナル・レビュー」も、健全な教育のために良い仕事をしている雑誌である(1巻から1巻、1891年から1891年)。

 

5. 心理学と他分野

 

 結論として、この報告書が心理学が身を置く条件とその歴史的経過を適切に示すために、このテーマが、現代の社会環境の中で文化的要素を大きく構成している他の「道徳」勢力と持続する関係について簡単に述べることが必要であろう。哲学との伝統的な関係は、我々の努力の新しい方向性によって断ち切られることはなく、それどころか、より密接で合理的なものとなっている。心理学的手法の変化は、先に述べたように、哲学的発想の変化によるところが大き く、科学的心理学が哲学に反応して健全な刺激を与えているのも、同じ事実の一部 に過ぎません。哲学の批判的観念論的手法も批判的現実論的手法も、新しい心理学の教訓によって、 より豊かで深みのあるものとなっているのです。この国においてその初期衝動のひとつを、前派の先進的な思想家であるミシガン大学ジョン・デューイ教授の著書『心理学』に負っているこの科学が、カント派の知覚の教義を後派の思想家に受け入れられる言葉で再構成することによってその恩に報いることは当然なことであった。そして、両派の問題は、今日のように、両派のかつての戦場を超えて、現代の自然主義的進化論の教義と協会心理学がカバーするあらゆる範囲に広がる地において接合されるべきであるということは、両派にとって小さな利益ではありません。哲学は、ルイスの議論が論理的であるというルイスの非難から逃れることができる。それは、両側の論争者が、ルイスの後期の議論さえ振り返り、激しく争われた両方の公式の本質的真実を認めることができるときである。あえて言えば、それは心理学の進歩が、論理学の用語に内容を与え、優れた人たちがより総合的で深遠な直観に到達できるようにしたためである。

 

 心理学と神学との関係もまた、かつてないほど緊密なものであり、今後もそうでなければならない。そして、心理学が大人の体格に成長し、知識の組織化において社会的自意識を獲得するにつれて、その義務は、より大きな相互利益のものとなるに違いないのです。神学が心理学から得ることができたかもしれない恩恵は、精神的事実の全範囲の取り扱いに論理的方法を押し付けようとする不幸な試みによって、大きく否定されたのである。系統神学の教科書に掲載されている「人間学」の扱いは、ホフディングやジェイムズのような現在の心理学の扱いと、少し前の哲学者の生理学が神経学者や形態学者の仕事とほぼ同じ関係を保っている。しかし、このような状況が現在、幸福な方向に進んでいることは明らかです。プリンストン大学のジェームズ・マコシュ元学長が、この国で哲学を教えていた神学者の中で最初に、私がこの状況の改善の原因として取り上げた、次の二つの新しい影響力を歓迎し提唱したことは、ある人物の功績といえるでしょう。 心理学におけるドイツの研究(リボーの『今日のドイツ心理学』への序文、1876年)と生物学における進化論の影響(『進化論の宗教的側面』、1888年)である。

 

 最後に、社会的、集団的条件下における人間の精神的、道徳的生活を調査することを目的とした、心理学研究の新しい部門が成長していることに注目したい。社会学や犯罪学のような科目で明らかに必要とされているのは、人間が秩序ある、あるいは無秩序な群衆の中に、また合法的、あるいは犯罪的な組織の中に見出されたときの人間の感情や行動の法則についての知識である。この必要性は、社会学者にも心理学者にも感じられ始めており、イタリアではフェリ、シグレ(「La foule criminelle」1893)、フランスではタルド(「Les Lois de I'Imitation 」)とガヨー(「教育と遺伝」1892)、イギリスではスペンサーによってすでに始められた問題が、この国でも実り多い展開を迎えることが期待できるかもしれない。神学校が、聖職者養成の一環として、このような社会的人間に関する知識の必要性を認識し始めていることは、教育における興味深い時代の徴候である。エール神学校、シカゴ神学校、その他の神学校では、社会問題についての教育が独立した学科として行われている。

 

 そして、コロンブス万国博覧会での展示は、多くの点で十分ではなかったが、知的に研究する者にとっては、この科学の現在の成果と将来の展望を示すのに役立ったということだ。

 

本当に学振って同じラボが取り続けてんの?って話

学振ネタを何度も擦るのはあれなんだが、ちょっと気になって調べてみたので、紹介しておく。学振DCは、院生の気を揉む話題だろう。俺なんて、通るかどうか気が気がじゃなかった。最近はJSTとか他の支援も増えてきたが、、それでもなお、学振申請は博士進学者にとってのビッグイベントなんじゃないかと思う。

 

そんな学振DCだが、巷でまことしやかに言われてるのが

学振って同じラボから出続けているじゃん・・・・

ということだ。何年も学会に出ていても、なんかそんな気もしなくもない。

 

でも、本当にそうなのか?

気になってしまったので、今回は簡単に、過去5年間のDC1・2の取得者の受け入れ研究者をひたすら数えてみた。数え方としては、公式ウェブサイトの採用者一覧を見て、心理学の諸分野 (実験心理、臨床心理、社会心理、教育心理の4細目) の採択者の受け入れ研究者を手動でひたすらエクセルに記入していった。心理学では、認知科学神経科学系の細目に出す人もいるが、今回は入れなかった。理由は・・・面倒だったからだ。すまん。気が向いたらまた数えるかも。過去5年間なのは、上述のウェブサイトが公開しているのが過去5年だったからだ。

 

「お前さあ、前もこんなことやってなかった?」って声が聞こえてきそうだが、それはPDの採択者の論文数を数えたやつだな。

 

いきなりだが、結果がこちらになる。

 

 

縦軸がカウント数、横軸が受入教員が同じDC1・2の取得者の数になっている。

傾向として、半数以上 (68%) が、過去5年間でラボ内唯一の採択者となっている。これはまあ、そもそも博士院生が来ないとか、新設ラボだったりとか、いろんな事情があるから、だからどうと一概に言うことはできない。5年間ってのは、1人の修士院生がストレートでいけば学位をとっちゃうくらいの期間だから、ラボ内で自分が唯一の採択者みたいな事例は、実はそれほど珍しくなさそうだ。

 

逆に、32%は、過去5年間で2人以上採択されているラボとなっている。最大では7人採択されてるラボもあったけど、これはだいぶ例外的。でも、すげーな。ちなみに、細目は社会心理と教育心理に学生のテーマごとに出し分けていた。俺の出身研究室である伊澤栄一研も入ってた。後輩諸氏が活躍されているようで、俺は嬉しい。というか、分野の近い課題は、大体知ってる先生方だった。正直、肌感とそんな変わんねーな。

 

過去5年間に1人でも採択者を出しているラボは136個あった。学振DCは大体20-25%くらいの採択率のはずなので、その競争の中で何人も採択者出してるラボってのは、そう多くない。研究者の数で言うと、43人だった。認知科学神経科学関連の細目もいれたらもっと増えそうだけどね。

 

ある程度業界にいたら「はいはい知ってた」感はある話だったけど、博士進学考えている人は、ちょっと進学先の考慮材料にしてもいいかもしれない。学振DCが取れているラボがいいラボだと、安直には考えないでほしいし、実際そんなこともない。が、金がないと生きてはいけない・・・。俺なんかは、DC通らないと博士いけなかっただろうし、そういう人も未だに多いと思う。例えばJSTは取れる大学に限りがあるしな。もちろん、最近に採択者がいなければダメだということでもないけど、直近に採択されている先輩がいたら文章見てもらえたりとか、恩恵もある。俺が大学院進んだときは、俺がラボ初の修士院生だったので、友達同士で見せるのが関の山だったので、こういう先輩後輩関係は羨ましかった (まあ研究科には採択者がゴロゴロいたので、申請書はたくさんもらったけどな)。

 

 

 

Foxallの意図的行動主義って何なんだ?

意図的行動主義 (Intentional Behaviorism) というのはGordon Foxallさんという研究者が提唱している行動主義で、ポストスキナー行動主義の1つである。Foxallさんは消費者行動の研究者のようで、意図的行動主義の主な適用対象もそこにある。

 

この記事では、意図的行動主義が大筋何を言おうとしているのか、解説を試みる。全ての引用はFoxall (2021) から。Foxallさんは他にもいろんな論文も書いているし、意図的行動主義で一冊の本も出版している。が、正直様々な点で同意できないし、ぼくには行動主義として致命的な点があまりにも多いように見える。なので、意図的行動主義の最新版解説であるFoxall (2021) 以外を読む気力もなかった。言っていることにノれないので、あまり詳細に解説する気も起きない。この記事も簡潔なものになるだろう。

 

のっけからネガティブなことばかり言ってしまった。とりあえず書誌情報はこちら。

Foxall, G. R. (2021). Intentional behaviorism. In Contemporary Behaviorisms in Debate (pp. 151-189). Springer, Cham.

 

解説を始めていこう。まず、意図的行動主義が対象にしたいのは、消費者の「行為」であり、「行動」とは区別されるそうだ。行為というのは

 

"Action, then, is activity for which we are unable to establish antecedent stimuli that would account for it by making it amenable to prediction and control."

である。行動 (behavior) と対比させると、

 

"Behavior, by contrast, can be traced to a stimulus field. It is only when the discriminative stimuli that would account for an observed behavior cannot be located that the observed activity is designated action and a psychological explanation becomes necessary."

 

ということらしい。なんかこの時点でツッコミどころはあるんだが、好意的に見れば、Foxallさんはどんな刺激性制御が働いているのか明確ではない、現実世界の複雑な場面というのを想定しているんだなぁ、と思っておくことはできる。

 

そんなFoxallさんの意図的行動主義、行動主義を名乗っているけど、消費者の「意図性」基づいた説明として、認知という言葉がバンバン出てくる。じゃあ何がどう行動主義なのかと疑問が湧くし、ぼくも正直言って意図的行動主義は行動主義ではないと思っている。とはいえ、頭ごなしに否定して、「はい終わり」というのも面白みに欠ける。

Foxallさん自身は、

 

"Rather, our concern is with how the context within which consumer choice occurs, broadly speaking what behavioral psychology calls the contingencies of reinforcement and punishment, rewards, and sanctions, relates to the mental processes that guide or at least provide the explanation for consumers’ actions."

 

と述べている。ようは、Foxallさん自身は実際に心理主義を採用しているし、言ってしまえば、S-O-Rの図式を採用している。ただ、SとRの部分について行動分析学の知見を借りたい、という立場に見える。というのは、Foxallさんは随伴性の表象 (contingency representation) が行動を駆動していると考えていて、意図的な行為を行う人間の分析には重要な要素であると考えているためだ。

 

ここで突き放してしまいたい気持ちもあるが、もう少しFoxallさんの語っている内容に耳を傾けることにしよう。どうやら、意図的行動主義の研究には、3つの段階があるらしい。

 

第一には、理論的ミニマリズムで、これはいわゆる消費者行動分析的な説明であり、行動分析の語彙 (例えば、弁別刺激とか強化、弱化とか) を使った予測と制御である。Foxallさんは、徹底的行動主義が、この理論的ミニマリズムを具現化する上で「理想的な概念的基礎」であると見なしているようである。しかし、この分析には限界がくると、Foxallさんは考えている。殊、消費者行動であれば、個人ごとの強化履歴や随伴性の全てを観察できることは稀である。従って、純粋に行動分析的な説明を与えるには情報が不足してしまう。そんな方法論的な限界だけではなくて、消費者行動はときに行動主義的な説明に乗らない例が豊富に出てくるとFoxallさんは語る。

 

そこで、次に第二段階として、意図性に基づく解釈 (intentional interpretation) がくる。行動分析学的な説明が難しい事象に対し、心的用語による説明を求める。心的用語としてFoxallが挙げているのは、欲求、信念、感情、知覚なので、「意図」と銘打っているものの、用いる概念の範囲を比較的広めにとっている。第一段階の理論的なミニマリズム (消費者行動分析) は、この第二段階が必要な事象の洗い出しとして用いているわけだ。意図性に基づく解釈の結果、関心は「随伴性の表象」も含めた、心的過程へと移っていく。

 

"In the course of moving from the first stage of theoretical minimalism to the subsequent stages of psychological explana- tion, our subject matter ceases to be consumer behavior, a form of activity that is regulated by environmental stimuli, to consumer action which is conceived as resulting from the consumer’s mental processes, including the perceptual and conceptual representation of the contingencies of reinforcement and punishment identified in the initial stage."

 

最後に第三段階としてFoxallの挙げているのが、認知的解釈 (cognitive interpretation) である。第二段階で、行動にあてがわれた心的用語に対する情報処理プロセスを考えていくのが、認知的解釈である。

 

そんな段階を踏むのは、次のような意図があるらしい。

 

"This three-stage procedure is the means by which intentional behaviorism interrelates the context in which consumer choice occurs—the physical and social surroundings, including temporal and regulatory influences, that comprise the stimulus field and the pattern of reinforcing and punishing consequences of behavior that regulate its rate of occurrence—to the cognitive concepts required for the explanation of behavior for which any such context eludes observation. In the course of turning to psychological explanation, the principal concern for consumer psychology has become to ascertain how the contingencies of reinforcement and punishment are subjectively processed by consumers prior to their acting, i.e., the explanation of consumer choice by reference to consumers’ desires, beliefs, emotions, and perceptions."

 

長いので、DeepLの翻訳も載ってけておくと

 

"この3段階の手続きは、意図的行動主義が消費者選択の起こる文脈-刺激場を構成する時間的・規制的影響を含む物理的・社会的環境と、その発生率を規制する行動の強化・処罰結果のパターン-を、そうした文脈が観察できない行動の説明に必要な認知概念に相互関連付ける手段である。心理学的説明への転換の過程で、消費者心理学の主要な関心は、消費者が行動する前に、強化や罰の偶発性がどのように主観的に処理されるかを確かめること、すなわち、消費者の欲望、信念、感情、知覚を参照することによる消費者選択の説明になってきている。"

 

刺激場というのは、Foxallさんが好きな言葉で、実世界内の弁別刺激というのは「これ」と明示できるわけではなくて、高度に複雑な複合刺激になっているよ、という気持ちが込められている言葉だ。そんな刺激場である「文脈」というのは、明らかに行動の制御に関わっているように見えるが、ときにそれが欠如していても特定の行動ができる。そこで、文脈の存在している状況を行動分析的に捉え、それがない状況は心的用語でうまーくラップすることで、全体としては「意図のある行為」として理解していける、ということだろう。なんか狐につままれたような感じだな。ここでもあえて好意的に見たら、消費者行動という応用面の強い世界で、行動主義をそのまま持っていったら、それがどんなに有用でもボコボコにされるんだろう (そういう潮流については、Araiba, 2021)。そのあたりの学問的な実際の現場で、行動主義をいい塩梅に受け入れられる形しようとして、出現したのが意図的行動主義なんじゃないかと思う (その結果、実験家としては到底同意できない形態に変貌してしまっているが・・・)。

 

 

 

松島俊也先生の最終講義にかけつけて自分語りをする

3/26に松島俊也先生の最終講義があった。松島先生は、北大理学部の教員で、ヒヨコの意思決定や刷り込みの神経生理・行動神経科学を研究されていた方だ。ぼくとの関係としては、ぼくの大学院の指導教員である伊澤栄一さんの指導教員である。つまり、学問的にはぼくの祖父に当たる人だ。せっかくなので、松島先生の退官にかこつけてあれこれ思い出語りをしようと思う。

 

最終講義では、伊澤先生も記念講演で登壇していた。他には、最初期の弟子である矢先 (杉山) 先生、伊澤先生の兄弟子にあたる柳原先生も講演していた。

 

伊澤先生が講演中に紹介した松島先生とのエピソードの1つに、学位取得後、ポスドクとして東京に行く伊澤先生に選別代わりにソニーのハンディカムを渡されたというのがあった。ちなみに伊澤先生は、ぼくに特に現物支給の選別はくれなかったが、麻布十番で美味しいご飯を奢ってくれた。それはどうでもいいとして、件のハンディカムで伊澤先生は、ポスドク時代カラスの順位構造を調べた研究をしたらしい。当時カラスの行動研究、特に飼育下の実験室における研究はそれほど進んでいなかったので、手探りの中の研究だ。伊澤先生はその10年後、渡辺茂先生の後任で慶應にそのまま職を持つことになり、そのハンディカムはぼくの手に渡ることになった。修士1年生のときの話だ。

 

流れとしては、修士の本当に一番初めのときのことで、伊澤先生がハンディカム1つをぼくに渡してこう言ったのだった。

 

「なんでもいい、君が面白いと思うものを撮ってきなさい」

 

 

ぼくが修士最初の学期、受けた指導はこれだけだった。ぼくは大学院に入るとき、動物の道具使用に夢中だった。だが、慶應で飼育しているハシブトガラスに道具使用を訓練するという研究は、既にぼくの先輩の金井さんが修論でやっていた。二番煎じの研究をやっても仕方ないし、ハシブトガラスの道具使用訓練はとても長い時間がかかるわりに、カレドニアガラスのような洗練された道具使用を見せてくれるわけでもない。そこでぼくは戦略を変えた。道具使用そのものに攻めるというより、道具使用のビルディング・ブロックが何かを考えよう、と。パッと思いつくのは、身体の視覚的な制御である。え?盲人の杖は?とかそういうのも重要なんだが、一旦置いておいて、日常的な道具使用が視覚的ガイダンスに支えられているのは、それほど不思議なことではないだろう。そこで、カラスでも身体運動における視覚の役割を、もっと詳細に調べてやろうと考えたのだ。

 

ここまでは椅子に座って、机の上で決まった話である。本当に動物の行動を研究するなら、実際の動物の行動を見なくてはいけない。目の前のカラスの行動から「調べてほしそうな行動」というのを見つけないと、研究は始まらない。このことは、伊澤先生や柳原先生が松島先生から教わったことだと記念講演で再三述べていたことだが、そんな松島先生の精神が伊澤先生の指導には色濃く反映されていたようだ、と今ならわかる。

 

そこでぼくが何をしたかというと「ひたすら隙間に挟まった取りづらい餌を取らせる」というのをカラスにやってもらって、その様子をカメラに収めて日長じっくりと眺めるということだ。具体的には、アクリル板をネジで止めて、ギリギリクチバシを差し込めるような隙間を作ってそこにチーズの欠片を入れる。カラスはチーズが好きなので、それをとって食べようとしてくれるというわけだ。実験というにはあまりにお粗末で、素朴なものだった。そこでぼくが何を「発見」し、伊澤先生に報告したかというと、

 

伊澤先生、カラスって、餌をついばむとき、まずは両目で見るんですよ!

 

というものだった。「だからなんなんだ」と突っぱねなかった伊澤先生もすごいが、そんな些細なことに引っ掛かりを覚えたぼくも偉い。と、自画自賛しておく。馬鹿げた話に見えて、そこから「従来、この手の運動についてよく研究されているハトではどうなっているのか?」「鳥における両眼視の機能とは?」「網膜の細胞分布は?」とさまざまな疑問が湧いて、先行研究を漁って、最終的には博士の間の一連の研究に繋がったのだった。

 

まあ、とはいえ、なんとも悠長なことだろうと思うし、当時「こんな調子でいいのか?」という不安がなかったわけではない。そんなぼくに気づいてか気づかずか、伊澤先生は「こういうのは、博士にいくとやりづらくなるから、今のうちに動物をたくさん見ておくんや」と諭したのだった。結果的に、この時期はぼくにとって財産になったと思う。でも、初めての修士院生、しかも博士進学志望の学生にそんな指導を施すのはすごく勇気が必要だろうなあと思う。

 

以上が、松島先生から伊澤先生に伝わった1つのハンディカムの辿ったストーリーだ。それはそれで麗しい師弟関係ってことでいいんだけど、伊澤さん、そんな由緒正しいハンディカムだったならそう言ってくれよな〜、と思わないでもない。だいぶ雑に扱ってしまったが、ハイスピードカメラで撮る必要のない場面では、博士が終わるまでずっと使い続けてたはずだ。今も慶應の動物棟に、無造作に転がっていると思う。

 

なんか、松島先生の話というよりはぼくと伊澤先生の思い出話になってしまった。ここから松島先生の話をしよう。

 

ぼくは松島先生から直接指導を受けたことは一度もないが、ぼくにとって重要なタイミングでいつも松島先生は登場する。最初に松島先生を見たのは、ぼくがまだ学部3年か4年の慶應の学内講演会で、確かCOEか何かのイベントだったと思う。ヒヨコの意思決定と対応法則についての研究発表をされていたはず。当時はなんてこともなかったが、行動分析学ってのは、最初から面白いと思える人は少数派で、学んでからゆっくりその重要性に気付かされるものだ。

 

直接面識を得たのは、ぼくが修士のとき初めて発表した国際学会、Internatinal Congress of Neuroethologyだった。主催が北海道大学で、松島先生がホストだった。伊澤先生の紹介で、ぼくの発表も聞いてくれた。当時は確か、カラスのリーチング運動がFitt's lawに乗るとか乗らないとか、そういうspeed-accuracy trade-offについて関心があった。松島先生も聞いてくれて、発表後にグッと親指を立ててくれたんだが、後から伊澤先生に「松島先生、あんなポーズしてたけど寝てたぞ・・・」とチクられ、がっくししたものだ。

 

余談だが、Neuroethology Congressは、ぼくが知る限り最も満足度の高い学会だ。みんな高いレベルのサイエンスをしつつ、とても楽しげで、知的な充実感がある。ポスター重視のスタイルも良い。かなり後に松島先生と酒の席で、たくさん裏話を聞かせてもらった。一番良い部屋をポスターに当てたり、ポスター会場のコーヒーとクッキーだけは切らすなと口うるさく言っていたとか。頑張りすぎて終わった後寝込んだりとか・・・。

 

松島先生はあちこちの学会で会うことのできる人で、博士の学会、多分動物心理学会だと思うんだが、その発表で松島先生には「動物の行動の最適性と、そこからの逸脱を測りなさい」と言われたのだった。ちなみに同様にことを、玉川大学鮫島和行先生にも指摘されたことがある。当時はうまく返せなくて、うまく返せなかった指摘は長く心に残るものだ。これは、松島先生がヒヨコを始めたときからの問題意識であることを最終講義で知ったんだが、今ではぼくにとっての問題にもなっている。ちゃんと扱いたくて、シミュレーションで頑張って測ってみたりもした。あと、SFCで一回講義をしたときの内容も、そういう研究上の悩みが反映されている。この講義では、対応法則が特定の強化子・反応率の間のフィードバック関数の下では強化率の最適化として捉えることができることを紹介したりした。関学小林穂波さんとの共同研究で、視覚探索を経路最適化問題として捉えた研究をやったりもした。こちらは、遠からず世に出ると思う。多分。

 

松島先生は自分でも学会発表を精力的にやる人だ。松島先生の語り口は、とても独特で、味がある。単に話し方が上手いんじゃない。学者としての迫力がある。ぼくはそれに憧れを持っているのだが、大学院のゼミで真似をしようとすると、伊澤先生が大変嫌そうな顔をして「松島先生の真似はやめてくれ・・・」と言われたものだ。でも、真似しているってわかるくらいには「松島話法」に敏感な伊澤先生のセンサーにはじわじわくるものがある。

 

松島先生の最終講義でお祝いの言葉を贈った一人のOnur Güntürkünはぼくがドイツでポスドクをしていたときの受け入れ研究者だ。なんというか、この最終講義はぼくにとってのアヴェンジャーズ的な集まりなんだな。松島先生はOnurによく "I love mathematics, but mathematics doesn't love me" と言っていたらしく、それは祝いの言葉でも言っていたし、ぼくとOnurが雑談するときも度々話題にあがったものだ。Onurは、ぼくの知っている人類の中で最もよくできた人間で、傑出した指導者なんだが、Onurの話はまた別の機会に、いつかしたい。

 

2018年に北大で開催された鳥類神経科学のワークショップを主催したのも松島先生とOnurで、お互いの研究紹介をする場では松島先生は「私は自分の研究で、いわば盆栽を作りたい」と言っていた。Onurが何かを指摘して、その言葉で返していたのだが、真意は、今でもわからない。だが、松島先生がSten Grillnerさんの下で「T型フォードの設計から学ぶように研究せよ」という精神を教わった、という逸話を最終講義を聞いて、少しわかった気がする。

 

そういえば、同じ姿勢を、元霊長類研究所の友永先生からも教わったものだ。いつしか、心理学ワールドのインタビュー記事作成のために二人で会話をする機会があった。東京大学駒場キャンパスのイタリアン・トマトだったと思う。そこで「研究の出発点にはいつも自分のバックグラウンドがあるけど、研究対象の全てをまるっと受け入れるような愛が必要だと思う」という旨のことを言っていたのが心に残っている。

 

かなり雑駁となってしまった。この辺で終わりにする。総合すると、ぼくはサイエンスのやり方は伊澤先生に学んで、サイエンティストとしての姿勢では松島先生を追っていて、指導者としてのあり方をOnurに見て、今がある。松島先生の最終講義を聞いて、改めてそう感じた次第だ。

 

 

 

 

 

 

 

伊東裕司先生と山本淳一先生の最終講義にかこつけて自分語りをする

先週の土曜日、慶應文学部心理の伊東裕司先生と山本淳一先生の最終講義があった。ぼくはお二人から直接指導を受けたわけじゃないが、学部の頃から講義を受けていた。せっかくの機会なので、勝手に両先生にまつわる思い出語りをしようと思う。

 

伊東先生は認知心理学者で、専門は目撃証言場面をはじめとした、法場面における応用的な記憶の心理学である。伊東先生から見たら、学部のぼくは、伊東先生からしたら特に特筆することのある学生ではなかったと思う。しょっちゅう講義中に寝る不真面目な学生だっただけだ。そのときはごめんなさいと、ここで謝っておく。

 

ぼくの同期には加藤くんというめちゃくちゃ優秀な男がいて、伊東先生のところのゼミ生だった。腹が立つことに、顔もよかった。確か、彼の卒論は匂いの記憶の正確性に対する言語化の影響だったと思う。プルーストのマドレーヌは、元のマドレーヌより甘く記憶されている。雑に言えばそんな感じの話。まあ、ぼくはプルースト最初の100pくらいで挫折してるんだけど。こういう最もデキるタイプの学生は、文学部では大学院には進まないもので、彼は大層有名な企業に就職していったのだった。伊東先生が、彼の卒論のデータで学会発表をしていたのも覚えている。多分、いつしかの日本心理学会だったような気がする。

 

ぼくが博士課程に入った後は、期せずして伊東先生の研究室の大学院生であった島根くんと共同研究する機会があった。きっかけは彼の学振の申請書をぼくが添削したことにあった。申請書の内容は彼の研究で (まだ?) やってないことなので書けないが、ぼくが提案した話としては顔の形態的な類似性を測って、虚記憶を引き起こそうという内容だった。虚記憶ってのは、ようは文字通り、偽の記憶である。この手の研究はたいてい単語が使われることが多い。例えば、「ニンジン」「キャベツ」「カボチャ」という単語を実験参加者さんに覚えてもらったら、「トマト」も覚えさせられたと後に報告しやすくなる。そんな感じの実験だ。こういう実験は、認知心理学ではDRMパラダイムと言ったりする。この場合は、どの単語も野菜ってカテゴリに属するという意味で、互いに類似している。だから、うっかりトマトも覚えさせられたと記憶の誤りを犯しやすいってわけだ。

 

ただ、目撃証言をはじめとした現実場面を考えれば、本当は顔の覚え違いを引き起こしたい。しかし、顔ってのはいろんな特徴を持つ多次元的な刺激だ。なので、どうやって顔同士が似ているかを測るのが難しい。そういう問題には、ぼくが以前使ったことのある「形態幾何学的計測」という手法が使える。これはもともと形態学で使われる手法で、ぼくは修士一年の頃にカラスのクチバシの種間比較で使ったことがあった。独学で覚えたわけではなくて、当時慶應理工学部にいた荻原直道先生 (今は東大) のところに教えを乞いにいっていた。まあ、せっかく覚えた技術なので心理学的な問題にも適用したくてうずうずしてたわけだ。そこで島根くんと、顔刺激の形態学的類似性を測って、似た顔の覚え間違い引き起こす記憶実験をやろうという運びになった。島根くんは伊東先生のところの大学院生なので、伊東先生との共同研究である!似たような顔が覚え間違えやすいというのは、言ってしまえば当たり前のことなのだが、そういう関心の研究は、二つの顔を混ぜ合わせる「モーフィング」という技術を使ったものしかなかった。モーフィング顔はあくまで記憶させた顔と他の顔を混合させたものである。従って、本当に別人の顔と思い出し間違いを実験室で作っているわけではない。ぼくらの研究はこの点を解決しようとしたってことになる。なんやかんやでこの研究は形になったし、島根くんは日心でポスター賞を取ったりとわりとウケたようだ。

 

他に顕著な伊東先生との絡みといえば、博士入試のときと博論研究計画発表のとき同じ質問を食らったことである。このことは別のブログで書いたから、繰り返さない。

 

 

山本先生とは、深い絡みがあったわけではないが、山本先生の研究室出身の松田さんには今も昔もお世話になっている。例えば、ぼくが最も貧乏だった博士に進学する直前の頃だったか、焼肉を奢ってもらった恩がある。修士の終わりからDCの給料が入る5月までというのは、とにかく金のない時期だった。どれくらい金がなかったかというと、家賃を3ヶ月滞納していて、最終的には携帯とガスと電気が止まっていた。一宿一飯の恩というのはでかいもので、ぼくが松田さんに頭が上がる日はこないだろう。おっと、これは山本先生というよりは松田さんとの思い出だな・・・。

 

山本先生の講義を受けたのは、学部の頃だけだった。院の講義は発達支援の実習とゼミしか持っていなかったはず。少なくとも、ぼくがいた頃はそうだった。山本先生が持っていたのは「発達心理学」のコマだった。実際の内容は、半分が発達心理学ピアジェやらヴィゴツキーやらの話が出てくるが、もう半分は応用行動分析学の話である。ぼくは応用行動分析学はなんもわからない人間なんだが、一応、行動分析学自体は学部2年から博士の3年までの8年間、ずっと坂上貴之先生のもとで学ぶ機会があった。そういうわけで行動分析学の知見には、大幅な信頼を寄せている。しかし、ぼくが関心があるのはあくまで実験室場面の研究である。殊に現実場面での威力ということに関しては、今でも学部2年の発達心理学で習ったこと以上の知識はほとんどないんだな、これが・・・。

 

これもまた山本先生本人との関わりではないのだが、学部3年生の頃から修士課程くらいまでの間、行動分析学の勉強会に参加していたこともあった。この勉強会は、たまたまオーガナイザーの藤巻さんが実験棟を出るタイミングでたまたま出くわして、そのまま捕まって言われるがままに参加することになったんだが、なんだかんだ4年くらい出続けた。内容としては最初は『行動分析学研究』を第一巻から総説やコメンタリを除いた論文をほぼ全て、1つずつ読んで、みんなでけちょんけちょんにしてやろうというものだった。それが終わったら、いくつか本をピックアップして、何人かで分担して輪読をした。例えばぼくは "Behavior Theory and Philosophy" を担当したと思う。この研究会でも当時山本先生の研究室の院生だった石塚さんや、よその大学の応用行動分析学の人たちが何人か参加していて、親しくさせてもらったものだった。

 

いいかげん山本先生にまつわる話をすると、山本先生は修論・博論の副査だった。ぼくは大学院生の頃はずっとカラスの運動の研究をしていた。山本先生は応用行動分析学で、顕著な業績は自閉症児への介入研究だ。だから一見すると、「なんで山本先生?」と思われるかもしれない。だが、山本先生はもともと霊長類の研究にも携わっていたし、動作への介入にも興味も持たれているようだ。最終講義でも、そのあたりの話に触れられていた。定年後もバリバリ続けるつもりのようで、「運動心理学」とご本人は言っていた。山本先生は、研究をスケールさせるのがとてもうまい。もっとそういう面を早くから知っておけばよかった。

 

とにかく、そういう来歴と現在があるのが山本先生というわけなので、実はぼくの修論・博論の審査にはピッタリな方だった。博士当時はあまりそういう経緯を知らなかった。なので審査の際に山本先生が深く、鋭いコメントをするものだから内心びっくり・びくびくしたものだった。なんともまあ失礼な話なんだが、実際そうだったんだから仕方ない。