[...] 結局、AIのような技術を使おうとする側も、自分が依拠する価値基準に意識的ならなくてはいけないということだ。そのためには、客観視するために数値化された「事実」をもう一度ことばに解体し、自分の置かれたコンテクストに沿って理解し直さないといけない。そこで必要になるのは、豊かな歴史的・文化的造詣に裏打ちされた深い思考なのだろう(本書 p. 232)
『「事実」の交差点』は京都大学白眉研究所に所属する4人とフランスの社会科学高等研究院のジャン=フレデリック・ショーブさん、人間環境大学で「系統樹思考」で有名な三中信宏さんの6人の著者で構成された「対話的論集」だ。
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本書は、著者のひとりの佐藤駿さんからご恵送いただいた。佐藤さん、ナカニシヤ出版さん、ありがとう!先週ちょうど、出版記念イベントがあったので、その記憶が残っているうちに、本書の感想を述べようと思う*1。
まずは俺と佐藤さんの関係から。佐藤さんはシクリッドというカワスズメ科の魚類を主に研究している人で、動物研究をやってるんだから俺とは広義の同業者だ。だけど、知り合ったのは意外と最近で、去年の生態学会のシンポジウム「再考・認知生態学」に一緒に登壇したときのことだ。でも、彼はもはや俺の盟友みたいなもので、アフリカ帰りに数ヶ月ぶりに顔を合わせても「あ、久しぶりです。ところで、最近気になっていることがあるんですけど」と、出会って3秒で学問的な話が始まる。一方、俺はそんな彼にちょっとバツが悪そうに「あ、まずはトイレ行っていいですか?」と返す。そんな間柄だ。ちなみに他の著者の人たちとは、件のシンポジウムの懇親会で話す機会を得ることができたが、全員が初対面だった。
研究者であれば、専門分野と自称するものが1つや2つあるものだ。研究者が研究発表で公開するものは、数値に落とされた知見だけではない。それは科学者であれば論文の "Discussion" で軽く触れる推測にすぎないものから、一定の注目を浴びる仮説、そして分野内で受け入れられている「事実」に至るまで、多くの様態をとる。さて、事実はいかにして事実になるのか? 改めて考えみると、これは意外と自明なことではない。その問題意識のもと、本書は白眉研究所の研究者が集まり、年間を通じて議論する中で、生まれたようだ。
まず、この本の著者陣を見ると、著者の専門分野の多様さにまず目を引かれることだろう。全員の名前と肩書きを並べると、歴史学の小俣ラポー日登美さんとジャン=フレデリック・ショーブさん、行動生態学の佐藤駿さん、生物進化・生物統計の三中信宏さん、地球惑星科学の松本徹さん、情報科学の包含さんである。本書のきっかけは、京都大学の白眉センターのポスター発表であったらしい。本書にも書かれているが、編著者の小俣さんがポスターという形式で成果を発表させられることに疑義をもったところから始まったらしい。ポスター発表は「ことば」そのものが研究成果と不可分な学問にとって不合理な形式である、と。もう始まりからして面白いんだが、結果的にこの著者陣で年間を通じて議論する中で、本書は生まれたようだ。
果たしてこのメンツで、一貫性のある本ができるものなのか?単なる各論の寄せ集めの雑多な論文集に過ぎないのではないか?そう訝しむ人もいるかもしれない。安心してほしい。ここまで多様な専門家が集まり、各論では一見関連のない議論が展開されつつも、常に自分たちの分野が生み出す「科学的知見」がいかにして事実として受け入れられるようになるのかを見つめ直す視線の下で描かれている。つまり、本書の背後には各分野の学術的プロセスから産出される事実のあり方を相対視することというメッセージが、常に基底に流れている。それは、ディシプリンの大きく違う学問領域を突き合わせるという、「比較しえぬものを比較する」作業の中でこそ生まれ、学術成果が生まれる文脈を見つめ直す契機になった。これは、読者にとってもそうなるだろう。本書はだからこそ「対話的論集」と銘打たれている。
全体の流れを俺なりに再構成してみよう。
小俣さんの序章では、諸学で明かされる「事実」がいかに齟齬を孕み、研究者間のディスコミュニケーションを生み出しているのか、科学史の重要事項・事件とともに紹介される。それを引き受けるように、第1章では、事実の錯綜の最たるケースである「歴史を語ること」について、当事者の特権性に対するショーブさんの警句が続く。第2章では、まさに歴史学の場で起きたディスコミュニケーションの例として、小俣さんの聖骸布*2にまつわる科学研究と、奇跡が奇跡として受け入れられる顛末との交錯が語られる。「トリノの聖骸布がイエス本人のものではない」という科学的事実と「奇跡が奇跡となった」という1つの事実の間の緊張関係がそこにはある。「この聖骸布はイエスが被ったものであるか?」と「この聖骸布は "本物" であるか」は、異なる問いであるということだ。
第3章は佐藤さんが描く、そもそも何が事実であるかすら判然ではない「動物のこころ」の章である。ここでもまた、何が「こころ」であるが歴史的な経緯と不可分であるがゆえに、そこから生み出される事実もその影響下から逃れることができない。こういう科学の背景には、どういう思考が介在しているのだろうか? 第4章ではそれに応えるように、「歴史と科学をつなぐ」思考として、アブダクションの推論に関する科学哲学が三中さんにより展開される。アブダクションは、現在のデータともっとも合う仮説を選び取る推論の様式である。その推論は、どこまで信じてよいのだろう? 三中さんは統計的思考やヴィジュアル・リテラシーの重要性を説く。
ヴィジュアル・リテラシーは物事を「見る」ことの能力だ。第5章の地球惑星科学では、松本さんがその「見る」ことに対し、自身の研究モチーフに反省的な視線を向ける。小惑星リュウグウから持ち帰った砂の微細構造に名前をつけることに悪戦苦闘する姿は、読んでいて楽しい。そういう楽しさはさておき、何を「見るべきか」の取捨選択には、背後にある価値判断の混入を免れることができない。惑星地球科学の場合、生命の起源につながる化学反応の痕跡の発見が何よりも重大なものとされる。が、それはある種の人間中心・地球中心の態度を孕んでいる。包さんの書く第6章では、そういう価値判断が深刻な影響を社会に及ぼす例として、近年のAI技術の発達を挙げられる。この手の話で有名な例だと、犯罪者の予測モデルが人種差別的であることが糾弾されたことだ(p. 213)。そういう現実を踏まえ、AI技術の生み出す事実の特権性に対し、包さんは人間側の価値との対話を諦めないことを説いてくれる。
終章で歴史学者の小俣さんに再びバトンが返ってくる。日本において人文学と科学がいかに隔たっていったのか、この国の学術政策も踏まえた歴史的経緯が述べられている。その上で、1-6章の各論を拾いつつ、もはや比較が不可能な細分化へと進んできた諸学を改めて突き合わせて出てくる「事実」の産出の文脈を押さえようと試みる。
こういう越境的な対話はどんな帰結を産むだろうか? 小俣さんは最後に「私は再び伝統的な歴史学のふところに戻っていくだろう」と締めている。しかし、戻る前と後では、自身が馴染んだ「知」に対する見え方がきっと変わっているはずだ。読者も同じ体験を得られることだろう。研究者であれば、自身の研究「事実」が生み出される文脈を相対化する契機にもなるし、そのための思考の手がかりが本書にはたくさん詰まっている。
だからこそ本書は、同分野の著者の章をつまみ読みするだけではもったいない。後の章の後に前の章を見返すこともできる。例えば、第4章で導入されるアブダクションの推論というレンズを通じて、第3章の動物の「こころ」を見つめ直すのには一考の価値がある。また、各章の間には、次の章の担当者が前の章に対するコメントを数ページにわたって残してくれている。これがまた良い。冒頭の引用は、歴史学者の小俣さんから情報科学者の包さんへの所見である。
ただ、本書は各論としても面白いこともきちんと強調しておきたい。俺が専門家として内容を吟味できるのは佐藤さんが書いた第3章——『生き物の「こころ」は科学的「事実」になりうるか』——だ。ここでは、動物心理学の来歴と社会生物学論争の一部始終の中で「こころ」が背景化する過程、あるいはその反動からドゥ・ヴァールのような「新しい擬人主義」として再び前景化する動向が語られている。とはいえ、その流れは行動主義の抑圧から解放された動物の心の研究などという、直線的で陳腐な発展史ではない。それは学問を取り巻く情勢も巻き込んだ、捨てられる「事実」間の相克の変遷である*3。ちょうど、小俣さんも主著の中で、キリスト教の「殉教」概念を扱う中で、「その語を用いること自体が、歴史化された行為」であると喝破していた(小俣,2023,p. 6)。心にまつわる科学もまた、それは歴史や社会における価値から常にニュートラルな立場でいられるということを意味していないということだ。
あと、俺の狭義の同業者にとっては、ホンソメワケベラの鏡像自己認知にまつわる議論の顛末(いや、まだ係争中か...)がまとめられているので、読んでおくと勉強になるだろう。
こうやって本の流れを書くと、まるで「異分野融合」を謳って研究者が集められた成果物のように映るかもしれない。しかし、最初に本書の経緯を紹介したように、事実はまったくそうではない。出会う必然性がない者同士がたまたま遭遇してしまったのが、本書の発端だったのだ。本書では、こういう偶有性に溢れる現場でもあり、読んでいると「なんで俺がここにいられなかったんだろう!」という羨望と嫉妬の念すら湧いてくる。
「なぜ、その学術プロセスでそれが事実として受け入れられるようになるのか」ということは、研究に忙しいといちいち考えてられないというのが、ほとんどの人の本音だと思う。しかし、心理学者をやっていると、こういう場面によく出くわす。「どうしてそれでXXがわかったことになるの?」という疑問に対して、聞かれた側が実験・調査方法を再解説してしまうという学会発表や学内トークでの一幕だ。もちろん実際には、方法がわからないわけではない。心理学は文脈だらけの学問だから、同業者内でもこういったことが普通に起きてしまうが、分野を越境すると尚のことである。
本書の編著者であり、発起人である小俣さんは、本書では「文理融合」という言葉をあえて積極的に用いなかったことを強調していた。「学際」「異分野融合」「文理融合」の手前に、研究者である人間が出会わなきゃいけない。「学問とは真実をめぐる人間関係である」というのは、元京大総長の松本紘の座右の銘らしい(p. 258)。本書の冒頭では交差点の比喩として、十字路ではなく環状交差点(ラウンドアバウト)を用いていた(p.p. i-ii)。

環状交差点は環状の道をぐるぐる回って、目的の道に出ていく。道がわからなければしばらく回ってもよい。歴史学者と生物学者が異なる道から入ってきて、一緒に回って同じ道から抜けてもよいし、異なる出口に別れても一向に構わない。どちらの場合でも、研究者の邂逅は、交差点に入る前と後で、その人を別人に変えてしまうパワーがある。
*1:他の書評と順番が前後してしまって、申し訳なさはありつつ......。
*2:キリスト教の聖遺物の一つで、イエス・キリストが磔にされて死んだ後、その遺体を包んだとされる布 聖骸布 - Wikipedia
*3:俺も最近ちょっとそういうの書いたんで、みんな見てくれよな。