人間中心主義は味のしなくなったガムじゃなかった

人間中心主義(anthropocentrism)ってのは比較認知ではよく聞くと思うが、人間の心理学をやっていてもあんま聞かない言葉だろう。そのまんまだが、動物の認知や行動を調べる際に、人間を中心にして物事を考えるって見方だ。これだけだと大層な話でもないよな。今日は人間中心主義について、ちょっと思い出話をする。

 

その思い出話の前に、前提となる事柄を紹介しよう。「人間中心」といっても、いろんな意味がある。人間の認知を頂点として、そこに至るまでの道筋を探るのが動物の認知研究という、ある種の自然の階梯(scala naturae)的な見方を指すこともある。これは見るからにやばいよな。明らかにやばいのに、ナチュラルにそういう言説をかまされることもなくはない*1。別の意味では、我々が人間である以上、人間の認知から思考を出発せざるをえないよね、みたいなバイブスを表すこともある。場合によっては、かなり酷いものの見方に対して使うこともあって、「その認知がこの動物にあるはずがない」という先入見をわざわざ人間中心主義と呼ぶ人もいる。この先入見はただの偏見なので、科学者としていかがなるものかと思うが、対象としている分類群次第では、査読でそういう態度をとられることもあるらしい。やられた人はたまったもんじゃないだろう。

 

ちなみに似たような言葉として擬人主義(anthropomorphism)というのもある。これは、動物を人になぞらえて理解しようとする思考を指す。もともとは、神を人間の視点で理解しようとする、非敬虔な態度を示す神学用語だった。それが20世紀に入って、いつの間にか動物に対して使われるようになった。擬人主義ってのも、ヒューリスティック擬人主義だとか、状況的擬人主義だとか、いろんなタイプに分類されていて、こっちはよくてあっちはダメみたいな議論がある。擬人主義はダメだよ、と俺たちは学部生の頃に習ったが、実は最近の科学哲学では「いや、しょうがないんじゃ?」みたいな論調が多い。その「しょうがなさ」と実験心理学における「しょうがなくない」落とし穴、どちらにも言い分がある。というか、指しているものが違う場合が多いようにも思う。この溝については、誰かが頑張るところだろう。今なら日本だとたぶん後藤さん、海外だと信頼できるのは Louise Barrett あたりだろうか。「擬人主義、ダメ絶対」の比較認知第一世代も、「擬人主義も運用次第」第一世代の Frans de Waal も、すでに一線を退いたり、お亡くなりになっている。次の世代の人が、また違った切り口から何か言い出すことだろう。

 

よりマイナーな言葉では「人間起源的アプローチ」(anthropogenic approach)って言葉もある。これは生物学の哲学者 Pamela Lyon が言い出した。これは人間の認知を標準モデルとして、他の分類群の認知を考えるという方針を意味している。どっちかというと、研究を実際に遂行する際のアプローチのことだ。対置される「生物起源アプローチ」(biogenic approach)は、生物があれこれやって環境の中で存続しているとき、そこに認知ってあるよね〜というスタイルの思考法だ。そこに出発点を置くと、「じゃあ、その認知ってなあに?」というのが実際問われるべきことになる。この2つのアプローチは出発点の置き方が違うわけだが、そうすると自ずと焦点化されやすい問いも変わってくる。問いが変わると研究も変わる。俺が興味があるのは生物起源アプローチでどう比較認知を進めていくのか、ということだ。とはいえポストが取れてないので、とりあえず「大事だぞ」という提起だけはしておいた。さしあたり、人間起源的アプローチがいいとか悪いとかには、俺にとっては2次的なことだ。同じ理由で、人間中心主義・擬人主義の問題に取り組むのも俺にとっては優先事項ではない*2

 

というわけで、ここまで3つの anthropo-XX をざっと紹介してきた。3つは互いに関連していないわけではないが、同じものではない。たとえば、人間中心主義的に研究を考案しつつ、擬人主義はなるべく避ける、ということは両立しそうだ。なるべく人間中心主義を避けようとしつつ、人間起源的アプローチを採用する人もたくさんいそうだ。なんなら、比較認知で一番多いのは、この手の人なんじゃないかと思う。ここで「なるべく避ける」というのは、大っぴらには言わないが、もはやバイアスとして無意識的に働くような人間中心主義的思考は暗黙のうちに受け入れている、くらいの意味で言っている。擬人主義を採用しながら人間中心主義を避けることができるのかと言われると難しそうだが...かといって、この2者が包含関係なのかは、ちょっとわからない。いずれにせよ、3つ anthropo-XX が相互に関係はしているものの、異なる問題として運用されているし、されるだけの理由もあるということだ。

 

さて、人間中心主義についての思い出話をしよう。ただ、上で述べた人間中心主義とはまたちょっと違った側面のそれだ。俺は修士から博士院生までの間、カラスとハトの採食行動をモチーフに運動学習の研究をしていた。大元のアイデアは、カレドニアガラスの道具使用があった。

 

釣竿として用いる枝を咥えるカレドニアガラス(Matsui et al., 2016 より)

 

実際にはいろいろなトラブルがあって「ついばみ」を標的行動に選んだんだが、その手前には道具使用のような繊細で巧緻な運動がどのようにしてカラスで可能になっているのかに関心があった。

 

この問題を考える上で、大学院での研究計画を考えていた学部4年生当時、俺が何したかというと、割り箸を咥えてみて、首を振ってみたのだった。あまり人には見られたくない光景である。もちろん、俺は真剣そのものなのだが、事情を知らない人にはなんとも滑稽で奇妙に映ることだろう。どこかで、このエピソードは書いたかもしれない。

 

そこで気づいたのは、道具を動かそうとすると、一緒に視界が動いてしまうということだった。俺が手で箸を使っているとき、そんなことは起きない。人間の目と手は、物理的に離れていて独立に動かせるからだ。これも当たり前のことだろう。ただ、棒を振るという、道具使用においてもっとも単純な動作でさえ、感覚運動の随伴性が異なっていることに、俺はそのとき気づいたのだった。このとき以来、俺の大学院でのテーマは鳥がクチバシを使って巧みな運動をする際、クチバシという効果器に伴う必然的な感覚運動の制約をいかにして乗り越えているのか、という問いに定まったのだった。なお、答えは出ていないが、暫定的に何がわかって、何がわからないのかくらいは大学院を出ていくときにまとめた

 

ここで人間中心主義に戻ってくる。俺がカラスのような身体を持っていたら、そもそもこんな問題は問題にすらならなかったのではないか。生まれつきクチバシを使ってモノを操作するのが当たり前で、それに何の不自由もないだろうからだ。それは、俺たち人間が二足歩行しているのは相当に凝った仕組みがあるわけだが、そんなことは気にもかけていないのと変わらない。でも、これは明らかに他の動物と比べて妙だから、みんなが興味を持てる。一方、俺が鳥のクチバシに驚きを見出したのは、俺に人間の身体レイアウトが備わっていたことと無関係ではないはずだ。あるいは、俺がオウムだったら、人間だったときと同じように「カラス問題」に行き着いたかもしれない。オウムは脚で器用にモノを操作するからだ。カラスに対して「あいつらさ、よくクチバシだけで頑張れるよな」と不思議がるオウムの俺がいる世界線もあったかもしれない。

 

とにかく、人間が持つ身体と運動器官の構成が、逆説的に俺をカラスの感覚運動系が抱える課題に誘ったということだ。一応断っておくが、この事例を人間中心主義と呼ぶ人はあまりいない。でも、これも拡大解釈すれば、人間中心主義的なセンス・オブ・ワンダーだったことには違いない。人間中心主義は俺の標的ではないと上ではいったが、あながち無関係ではなかったようだ。みんなが既に、ああでもない、こうでもないと言ってるから、別に俺の出番はないと思っていたのだけど。こいつは味のしなくなったガムじゃなかったらしい。だからなんだという話ではあるのだが、さらに多くの動物研究に親しめば、もっといろんな身体レイアウトとその動作を不思議がれるかもしれない。そういえば、ナイカイムチョウウズムシの研究を始めたときも、出会った人全員に左右相称動物の進化について、学びたての知識を熱弁していた。前にも書いたが、John Kaas 編著の "Evolutionary Neuroscience" だ。青年のときの俺も、30代の俺も、根本的にはさして変わっていないらしい。

 

論文を読んでいるときに人間中心主義という言葉が出てきたところで、ふいに思い出したので書き始めてみたが、何だかとりわけ教訓もない話になってしまった。もう4000字近くも書いてしまって、消すのも忍びないし、このまま公開することにしよう。

 

 

*1:そういうときはどうするか。なるべく早く話を切り上げる。

*2:ただ、比較認知という学問自体が「心の相対化」みたいなものを内在している以上、広い意味での人間中心主義へのアンチテーゼには、不可避にコミットしているとは言えるかもしれない。そこは別に否定する気もない。