【読書感想文】意識と目的の科学哲学/田中泉吏・鈴木大地・太田紘史 著

…私が提案し、固守する心の基準は、個々の経験の結果に基づいて、新しい調整を学習するか、または既存の調整を修正するかどうかということだ

Romanes 1882, p.4

 

表題の本を著者の鈴木大地さんにご恵投いただいたので、ブログにしようと思う。いつものことだが、書き出してみると半分くらいは自分語りなので、「書評」ではなくて「読書感想文」としておく。書誌情報はこちら。

 

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動物の意識・主観性、あるいはもっと一般に「心」といえば、古くて新しい問題だろう。Darwin自然選択説を構想しているときには、既にヒトと動物の心の連続性についても射程に入れていたし、晩年はミミズの行動学を通じて動物の意識に確信に近い思いを抱いていた。そのフォロワーであるGeorge RomanesやLloyd Morganにとっても、動物の意識は重要な問題であった。多くの心理学者にとってLloyd Morganは「モーガン公準」の人でしかないかもしれないが、人間の主観を動物の行動に投影することをいかに正当化するかに苦心した人でもある*1

Morgan "The Introduction to Comparative Psychology" の図 (Morgan, 1903)

 

この古くて新しい問題は、最近になって急速な展開を迎えている。生物学の哲学者や生物学者の中で、積極的に意識の進化について語り、理論を打ち出すようになったのだ。『意識と目的の科学哲学』は、そのような展開をわずか百数十ページの新書サイズにまとめた本だ。本書で特に取り上げられるのはファインバーグとマラットの説と、ギンズバーグとヤブロンカの無制約連合学習仮説である。どちらも主著が鈴木大地さんにより訳されているので、日本語でアクセスできちゃうので、こちらも合わせておすすめしたい。基本的には意識の進化理論についての本だが、ヒト以外の動物を対象にした研究者だけではなくて、ヒトを対象にした心理学を専門にしている人にとっても一読の価値がある。Amazonリンクはこちらなので、まずはカートに入れてから俺の感想文を読んでほしい。それが購入ボタンを押すための後押しになれば、ちょっと嬉しい。

 

さて、目的論と言えば、生物学、特に進化を取り巻く領域では意識的に避けられてきた、忌避的な対象だ。「キリンの首は高いところの草をとる "ため"」「魚のヒレは速く泳ぐ "ため"」「ヒトの咽頭は言葉を喋る "ため" の構造を・・・」といった 目的論的説明の例は、生物学者じゃなくてもどこかで聞いたことがあるだろう。この手のことを俺よりも進化に明るい人がたびたび指摘しているし、最近だと『進化思考批判集: デザインと進化学の観点から』でも話題になっていた。

 

心理学でも、例えばB.F. Skinnerも、厳密性が求められる場面では、オペラントを「強化子の "ために" レバーを押す」とで述べるのを避けていた (まあ、筆が滑ってそう書くことはあったと思うが)。オペラントという概念は、あくまで行動と後続事象の間の随伴性で定義される。そういった時間的相関性に基づいた概念*2なので、特定の行動的な事象がオペラントであるかには「目的」も「意図」も関係がない*3。そういうわけもあって、Skinnerは当初はオペラントが「自発」(emit) される行動で、レスポンデントを「誘発」(elicit) される行動であると捉えていたが、晩年に近づくにつれて、単に「起きる」(occur) と表現することが多くなる。

 

他にもこんな例はあちこちに見つかるだろう*4。というわけで、心理学においても目的論の混入とそれに対する処方箋の応酬というのは、実験的な批判ではもちろんだが、概念の作出に際しても幾度も繰り返されてきた歴史がある。実は似たようなことを、既に19世紀の終わりにWilliam Jamesが既に指摘していたりもする。

 

一方、本書は、目的論を「意識の科学においてはある種の目的論(テレオロジー)が重要な役割を果たしうる (p.1)」と主張する。この「ある種の」という部分が肝要で、のべつまくなしに目的論を導入しようというのではないし、ましてや進化や行動の目的論的説明を肯定しようという意図ではない。目的論にもさまざまな変種があり、その一部が重要だと考えているようだ。ただし、著者たちは同時に「むしろ一部については受け入れるべき」とも積極的な導入を訴えている。そこまで言われたら、「はてはて、どんな目的論の導入が、意識科学における必然だと考えているのだろう?」と興味を持つのではないか。順を追って見ていこう。

 

「意識」にもいろいろな区分がある。本書で対象になる意識とは、感覚性の意識で "sentience" と呼ばれているものだ。近年の意識の進化理論は概ねこの意味での意識を取り扱っている。第1章はその「意識」について、形態失認や盲視といった定番の現象をとっかかりに、ファインバーグとマラットの説が導入される。彼らは意識を定義する特性に注目し、そのリスト化を試みている。そのリスト項目の妥当性は経験的な検証を通じて改変・増補・削除を要するだろうけど、本書で問題になっているのは、そういった特性に注目することで、例えば脊椎動物における相同性や、無脊椎動物の中の一部の分類群 (特に節足動物と頭足類) との収斂進化を議論するための土台になる。

 

ただ、ここまでの議論では、個体が自ら進んで選び取る目的や理由という視点がなく、「報告可能性」という意識の重要な側面も十分に掬い取ることができない。

 

そこで第2章では、行為者性 (agency) に焦点が当てられる。行為者性は、近年議論が闊達な概念である。最近であれば、Philip Ballの "How Life Works: A User's Guide to the New Biology" でも、遺伝子や進化の基本から始まり、最後は行為者性に一章を割いているし、Kevin Mitchellの自由意志論も行為者性という概念が中心的な役割を果たしている。こちらはそもそもタイトルが "Free Agent" である。

 

そんな行為者性の概念だが、本書では「行為者(行為主体)が自身の環境の中で受け取った刺激に対して、能動的かつ柔軟に特定の行為を選び取って反応する能力」と捉えている (p.33)。著者たちは、この能力と意識の関わり方に注目している。例えば盲視の人の行動であればあくまで、聞かれたら答え、それが統計的に有意な形で正当するという事例だ。そこには、その人自身の理由や目的に応じた行為の遂行という性質が見られない、と著者たちは指摘する。ブログの冒頭のRomanesの言葉を思い出してほしい。行動の調整することだけではなく、そのために、自ら理由や目的を持つことを、行為者性という概念は含んでいるようだ。

 

先ほど、オペラントが目的論を意図的に避けた概念であることを紹介した。この概念の別の言い方は「道具的行動」(instrumental behavior) だ。道具的行動という言い方は、行動分析学ではなくて、学習心理学で用いられる。「道具的」というのは、その行動のを道具のように用いて (つまり、目的のために) 後続事象をもたらすというニュアンスが含まれている。実際に、道具的行動は、行動ー結果連合 (response-outcome連合) により支えられていると考えられている*5。ただ、最近だと、盲視サルの道具的行動の研究もあり、この辺りは一筋縄ではいかなそうだ*6

 

オペラントの方で考えてみても、一口に行動と結果事象の関係から成立する行動の中でも「この行動は自身の理由や目的のために行なった」と報告可能であったり、「能動的かつ柔軟に特定の行為を選び取って」いると思しき振る舞い方には特別な随伴性がかかっているように思われる。ちなみに、Skinner自身は「意図」についてこんなことを言っている*7

Intention’ is a rather similar term which once meant stretching. The cognitive version is critical in current linguistics. Must intention of the speaker be taken into account? In an operant analysis, verbal behavior is determined by the consequences which follow in a given verbal environment, and consequences are what cognitive psychologists are really talking about when they speak of intentions. All operant behavior ‘stretches forward’ a future even though the only consequences responsible for its strength have already occurred. I go to a drinking fountain ‘with the intention of getting a drink of water’ in the sense that I go because in the past I have got a drink when I have done so. (p.5) 

何を言わんとしているかというと、「言語的な環境」における後続事象との関係から、その「目的」の報告が行われる随伴性を分析せよ、ということだ。意識の進化を考えようとすると、このアプローチが言えることはあまりない。言語行動を除くと、Skinnerは「オペラント理論は、ヒトの行為によって示されるように見える目的を、先行した意図、あるいは計画というものから、強化随伴性による後続する淘汰へと移行した」とも述べている*8。まぁ、このあたりが俺が徹底的行動主義に乗れない理由の1つでもあるし、Skinnerが言ったからどうというわけでもない。実際にこの後に出てくる「目的」に際しては、Skinnerよりもさらに現代的な考え方の方が、有効であるように思われる。

 

というふうに、道具的行動、オペラント行動の概念を軽く見てみた。いずれにせよ、行為者性や、それに関わる意識を考える上での「自身の環境の中で受け取った刺激に対して、能動的かつ柔軟に特定の行為を選び取って反応する能力」は、行動の科学へ翻訳したら、特別な刺激性制御がかかった道具的・オペラント行動になるはず。ただし、それがどんな様式のものなのかについては、多くの経験的な検証が必要なはずだし、実際に行われているわけだ。ゆえに俺自身は、意識にまつわる諸現象・諸概念を「言語行動」の枠に入れてしまうことに対しては、拙速さを感じる*9

 

「じゃあ、どう考えたらいいんだよ」と思われるかもしれない。そのようなことを考える上での有力な手掛かりになるのが、本書でも紹介されているギンズバーグとヤブロンカの無制約連合学習仮説であると、俺は思っている。この仮説は「目的指向性」と関わりが深く、第4章で紹介されている。その手前の第3章で、まずはその「目的」というものを再検討している。

 

この章では、生物学の歴史でラマルクの進化論をはじめ、排除されてきた目的論の考え方を紐解くところから始まる。著者たちは、目的論には少なくともプラトン的な目的論とアリストテレス的目的論の2つあると考え、後者は「排除されてきた目的論」には該当しないと論ずる。どんな目的論だろう?

 

生物の目的因は現代風に言い換えれば生物の目的指向的な性向であり、これによってさまざまな部分が組織化されて特定の機能が特定の仕方で実現されると論じられた

 

Edwin Holtという心理学者は1915年に出版された "The Freudian wish and its place in ethics" という本で、面白い例を考えている。かいつまんで話そう。ここに、1つの架空の左右相称形の動物を考えてみる。その生物には、身体の右側にのみ筋肉があるため、その筋肉を収縮させることで右に回ることしかできない。右回転という行動が、その動物の唯一のレパートリーなわけだだ。次に、その動物に左側にも筋肉がついたことを想像する。すると左回転が可能になっただけではなく、交互に筋肉を動かすことで「前進」という行動が誕生する。そこに感覚器が備わると、対象物への「接近」「回避」といった行動が生まれ、1つの機能的な特定性が生じることになる。これは、各部分から「目的指向性」が発生するミニマルな例になっているだろう。

 

この手の目的論、目的指向性が意識と関わりを持つようになるには、どのような条件があるだろう?それに対する神経科学者であるシモーナ・ギンズバーグと生物学の哲学を専門とするエヴァ・ヤブロンカの答えが、無制約連合学習仮説である。彼女たちの仮説の詳細は、本人たちの著書を合わせて読んだ方がよいが、「自身の環境の中で受け取った刺激に対して、能動的かつ柔軟に特定の行為を選び取って反応する能力」の条件足るリストを提案している点で、目的指向性、ひいては行為主体として動物の要件を定めようとしている試みになっている。

 

ちなみに、ギンズバーグとヤブロンカは、意識をこの要件群の特定の機能に求めるのではなく、それらが合わさったときの存在のあり方が意識なのだと説いている。彼女たちはこのことを "mode of being" と呼んでおり、生命と非生命の違いになぞらえている。生命とは何かというのも深遠な問いだが、少なくとも、生命であることが特定の機能を持っているということではないと考える人が多い。この場合、生命とは、特定の機能なのではなくていろいろな性質群 (代謝や繁殖、遺伝など) の複合として生じる存在のあり方とみなす。このような見方で意識を考えるのも、ギンズバーグとヤブロンカの特徴であり、本書でも好意的に述べられている。

 

そもそも意識に機能や適応的価値を帰属させるのが間違いのもとではないだろうか。そのような発想は意識を目的律的に説明しようという態度から生まれる。しかし、私たちの見立てでは、意識はむしろ目的論的な説明を要求する (p.81)

 

無制約連合学習仮説が提示する意識の成立要件がどれくらい妥当なのかは、個別に検証されないければいけないし、俺自身も思うところはある*10。とはいえ、まずはいったん有用な仮説として見たら、この無制約連合学習が可能な生物を特定する作業が、意識の進化的起源を探る研究になるわけだ。本書では、デネットの「生成評価の塔」のよる生物の4分類に基づいて考察が進められている。この分類は、生物をダーウィン型、スキナー型、ポパー型、グレゴリー型に分けるもので、第4章で重要になるのがスキナー型生物だ。スキナー型生物というのは、ありていに言えば学習ができる生物を指している。

 

本書の主張は「スキナー型生物での意識研究」の重要性を説くもので、裏を返せば、ヒト偏重、あるいは霊長類偏重、もっと言えば脊椎動物偏重な意識研究への批判でもある。それについては俺も大賛成で、最近、自分でも家で海棲無脊椎動物を飼い始めた。

 

ただ、スキナー型生物という括り自体にはあまり有効な分類だと思っていない。連合学習には道具的条件づけと古典的条件づけがあるのもちろんだが、古典的条件づけには、元々は微弱だったURがCSによって増強された形でCRとして生じるアルファ条件づけという考え方もある。これは、鋭敏化の延長として生まれた能力である可能性もある。一方で、古典的条件づけの多くは、個体の知識獲得の過程でもある。古典的条件づけ1つとっても、意識と関わり深いものからそうでないものまでバリエーションがある。そう考えると「スキナー型」という括りは、動物の行動を考える上でも意識を考える上でも粒度が荒すぎるカテゴリに俺は感じてしまう。ただし、裏を返すと、このことは至極ポジティブな面もある。というのは、心理学が哲学や神経生物学と協力してやれることのある、鉱脈がそこにはあるはずだからだ。

 

また、この「スキナー型生物」の説明の一節には、細かいところだけど、心理学者としていちおう指摘しておこうと思う箇所もあった。

 

「オペラント条件づけ」は...行動と特定の結果の連合を学習する際に行われるタイプの学習を指す (p.73)

「連合」の学習とオペラント条件づけの成立可否は一致するとは限らない。学習心理学者が「連合が存在する」と述べていても、当座的には「後続事象と行動の間の随伴性による行動の変容」が見られないこともあるだろう (行動分析学の言葉は介入や操作とセットであることが多い)。ちなみに、スキナーは他の論者が既に使っている概念を避けるために、わざわざ「オペラント」なんて造語を作った経緯がある。連合学習とオペラントは混ぜない方がいい*11

 

スキナーが行動主義者であり、意識の存在を否定していたことを思い起こせば、この答えは皮肉なものと言えるだろう (p.75)

スキナーは意識の「存在」を否定していない。なので、どこにも「皮肉さ」は存在しないと思われる。むしろ、徹底的行動主義という言葉は、操作主義的な心理学概念が意識と行動を分断して、前者を間接的にしか科学が触れることのできない私秘的な領域としてしまっていると批判する文脈で、初めて使われた*12

 

と、ちょっとイチャモンをつけてしまったが、無制約連合学習は検証可能な予測も出してくれるので、学習研究をする上でも「役に立つ」理論だと俺は思っている。実は、ヒトを対象にした認知心理学的研究のアイデアも容易に浮かぶ。もっといろんな人が読んで、研究してほしい*13

 

最後に、著者たちはギンズバーグとヤブロンカの議論を足がかりに、意識を特定の目的指向性という機能ではなくて、「意識は適応的な行為選択の土台である」という見解を提示している (p.83)。そのような土台であるならば、意識は1つの研究対象だけに留まらず、「生物の行動やその進化を説明する重要な要因」になるはずだと続けている。その「重要な要因」の分析には、1つの生物学的機能としての目的指向性 (例えばR-O連合!) だけでは不十分で、アリストテレス的目的因の視点が欠かせないというのが本書のメッセージであった*14

 

実は、似たような展開が行動の科学にも見られる。Edward ThorndikeやClark Hullは、刺激ー反応の結合による機械論的な説明を採用した。それに対するSkinnerの反論は、後続事象による淘汰 (selection) *15 という考え方を導入した。ここに説明スタイルの変化があり、実際に研究の方向性を大きく変えた。

 

その後どうなったかというと、実は行動の科学でも「目的論」を復活させるべきだと考える人がいる。そういうことを言っていたのが、Howard Rachlinという人で、自身の立場を「目的論的行動主義」(teleological behaviorism)と呼んでいる。目的論的行動主義を解説した論文が、あと数ヶ月くらいで出る予定なので、詳細はそちらを見てほしいが、push-pull的な機械論から自然選択、そして目的因の視座の復活という流れが、分野を超えてパラレルに起きているのは、興味深いことだと思う。

 

 

 

*1:しかも、それだけではない。Morganはイギリス創発学派と呼ばれる立場の祖でもあるらしい。この辺りは米田翼さんの『生ける物質』で知った。

*2:俺はこの見方がもっとも適切だと思っているんだけど、これはSkinnerの弟子だったCataniaの概念化に引っ張られている感はある

*3:勘違いしている人がとても多いことなんだけど、それは「目的」や「意図」を無視せよ、という意味ではない。それはまた別個の分析対象であるというだけだ。

*4:例えば?Thorndikeは「動物の推論などという戯言を引っ込める」ために自身の行動研究を行っていた、という経緯がある。それに対して、Köhlerはイヌの実験で反論していたりする。よく洞察実験から刺激−反応理論を批判したと言われているが、Thorndikeを名指しで批判している箇所では、イヌの実験を利用していた。

*5:そして、そうじゃない行動の様式として「習慣」がある。習慣!

*6:Kato, R., Zeghbib, A., Redgrave, P., & Isa, T. (2021). Visual instrumental learning in blindsight monkeys. Scientific Reports, 11(1), 14819.

*7:Skinner, B. F. (1977). Why I am not a cognitive psychologist. Behaviorism, 5(2), 1‒10.

*8:『 スキナーの徹底的行動主義: 20 の批判に答える』p. 259

*9:詳しくはここでつらつらと述べている。

*10:例えば、複合刺激を条件に入れる考え方は、視覚意識に偏っているのではないか、とヤブロンカさんに聞いたことがある。確かにそのバイアスはある、と答えてくれた。

*11:この「混ぜるな危険」問題は、科学研究する上では、99%の場面で問題になることはないんだけど、現象をどういうふうに捉えているかはその後の研究アプローチの方向性を定めるという点では、無視できない面でもある。

*12:そういう態度を「方法論的行動主義」(methodological behaviorism)と呼ぶ。この見方からすれば、連合学習は方法論的行動主義だし、認知心理学も方法論的行動主義になる。

*13:おまえもやれよ!って話だな。

*14:さらに言えば、このような見方から「原因」という概念の再考も必要だろうと、最後は締められている。

*15:自然選択はじめ、selectionは「選択」なのだが、行動研究だと "choice" と混同してしまう恐れがある。ゆえに慣例的に「淘汰」と言うことが多い。