【読書感想文】ゴキブリ・マイウェイ/大崎遥花・著

 

先月に開催された生態学会で「異分野コミュニケーションから始める認知生態学」というシンポジウムが開かれた。企画はシロアリ研究者の菊池顕生さん、シクリッド研究者の佐藤俊さん、そして表題の本の著者、大崎遥花さんである。登壇者はこの3人に加えて、実験進化から高田悠太さん、分子生物寄りの松田凪紗さん、構成論的な立場としてコウモリの行動研究とコウモリにインスパイアされたロボット開発をしている山田恭史さん、ヒトを対象にした身体性認知科学からは高田かずまさん、そして私。いろんな分野から「認知生態学」という分野、あるいは言葉に何か一家言ありそうな人たちが集められた、ジャスティス・リーグ的シンポジウムである。

 

そこで私が何を求められたかというと、当然、心理学者枠として、心理学的研究について話すことなわけだ。会場には200人弱くらいいただろうか。オンラインには50人程度は繋いでいたのを確認した。どんぶり勘定だが、あの瞬間、250人くらいが発表を聞いていたということになる。その中で心理学者を名乗るのは、私だけだったかもしれない*1。つまり、その場で私の言ったことが「心理学者の言ったこと」となり、私の考えが「ふむふむ、なるほど。心理学者って連中は、こういうふうにものを考えるんだなぁ」と受け取られてしまう可能性があるわけだ。恐ろしいことであると同時に、実に愉快なことだ。ただ、私のことを知ってる心理学者が聞いたら、卒倒してしまうかもしれないが。

 

大崎さんは、ご著書をシンポジスト全員分を持ってきてくれた。そういうわけで私もご恵投してもらえたので、久しぶりに読書感想文でもしたためて宣伝に貢献しようと思う。とはいえ、「各章の要約とそれに対する書評」的な丁寧な記事には、既に優れたものがあるのを確認した。なので私は、私の視点からもう少し「お気持ち」が込められたニュアンスで、どういう本だったのかを紹介しよう。ま~た、人の書いたものにかこつけて自分語りをする気か、お前は。そう思った人がいたら、それもまた遠からずである。

 

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大崎さんのX

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さて、本題に入ろう。本書には3つの側面がある。第一に「クチキゴキブリの研究書」としての側面、第二に「研究者が研究対象と悪戦苦闘する現場のエッセイ」的な側面、最後に「ひとりの大学院生から見た、大学院の実情記録」的な側面だ。2番目と3番目は、似ているようで、ちょっと違う。ひとまず最初の側面から、順に見ていこう。

 

大崎さんはクチキゴキブリの研究者だ。クチキゴキブリとは、その名の通り朽木の中に潜んで暮らすゴキブリなのだが、どうやらクチキゴキブリの専門家は世界にたった一人しかないらしい。 その研究者の名がHaruka Osakiという、気鋭の若手研究者なのだ。一昨年から学振PDで今年から学振CPDとしてアメリカで研究しているそうなので、研究者としては私と3年違い。学位取得後というのは、あまり細かい年齢差を気にしなくなってしまうので、広い目で見れば同世代の研究者という感覚だ。これは学位取得うんぬんというより、単に私がおっさん化しただけの可能性も高いのだが。

 

私の交友関係ともかくとして、本書は「世界で唯一のクチキゴキブリの研究者が書いた、世界で唯一のクチキゴキブリの研究書」である。そう書いてあるし、実際そうなのだろう。大崎さんを対面で見た最初の印象は、「この人は、自分の研究対象に夢中な人なんだな」ということだった。学会で講演中の表情やスライドのつくり、そういった細部に「愛」が漏れ出ている。そしてもちろん、本書のあらゆる箇所にも同じことが言える。わかりやすく目につくところだと、著者自身が描いたゴキブリの点描画が秀逸である。絵としても卓越しているので、挿絵を眺めているだけでも楽しい。

 

動物研究者、特に「非モデル動物」*2と呼ばれるような研究対象を相手にしている人間というのは、どこかで自分の研究対象に夢中なものだ。どうでもいい余談だけど、最近着任先の同僚助教たちと飲みにいったときに言われたのが、私はの場合、自分の関心のあることを話しているとき、ものすごい勢いで瞳孔が開くらしく、感情の昂りが大変わかりやすいそうだ。という感じで、動物研究者ってのは大なり小なりそういう部分がある。なので大抵の「好き」で強烈な印象を同業者に与えることはない。そう考えると、大崎さんのゴキブリへの入れ込み具合は、私から見ても相当なものなのだ。

 

クチキゴキブリの専門家は世界に一人しかいないと言った。しかし、だからといって、学術的な意義が薄いということではないし、ましてや多くの人が関心を持たないようなありきたりな行動しか示さない動物であるということでも決してない。動物の行動に関心があるという点で、広い意味では同業者の私から見ても、クチキゴキブリという題材には目を見張るものがある。大崎さんが研究対象としているオス—メス間の「翅食い行動」という謎めいた現象はその最たるものだろう。どうやらこのゴキブリは、つがいになると相手個体の翅を食べてしまうらしい。一度翅を食べられると再生しないので、二度と飛ぶことはできなくなる。おまけに、この翅食い行動は何時間もコストをかけて行う上、大部分はフン中に消化されず排出されてしまうそうだ。う〜ん、不思議だ*3

 

本書では、翅食い行動以外にもクチキゴキブリのさまざまな面白い行動が紹介されている。例えば、無脊椎動物では非常に珍しい「ペア・ボンディング」であったり、オスメス共同の養育行動、メスが卵を腹の中で孵す卵胎生、オスが婚外メスを排斥する行動であったりと、注目すべき行動の宝庫である。特に、巣に入り込んできた婚外メスをオスがつがいメスと協力しながら排除する行動は、冒頭のシンポジウムでも動画と共に見せてくれたんだが、せっせとメスの侵入個体を押し出して排除するゴキブリの姿には、昆虫研究者じゃなくても興味を掻き立てられずにはいられない。

 

という感じで、クチキゴキブリの行動学的研究が前半では紹介されている。俺は行動生態学はほぼ素人で、せいぜい教科書をちょっと読んだり、大学院時代の演習でAlcockのAnimal Behavior*4を読んだりした程度なのだが、こんなに魅力に尽きない動物の研究が過去ほとんどなされていなかったことには、ちょっと驚きを覚えるくらいだ。仮にこの動物が50年前に注目されていたら、今では行動研究はおおよそ思いつくこと全てがやり尽くされた動物として、行動生態学の成功例として教科書に載っていたんじゃないか。そんな動物であってもおかしくないと思わせられた。月並みなんだが、この世界には手付かずの鉱脈がまだまだあるということだ。20年後、いや10年後の動物行動の教科書には、クチキゴキブリがチスイコウモリの協力行動やトリの子育てのヘルパーのようなメジャーな研究例として載っているかもしれない。そして、その引用文献の大部分は大崎さんの研究になるのかもしれない。

 

次に、「研究者が研究対象と悪戦苦闘する現場のエッセイ」的な側面だが、これはひとりの一般読者として、研究者があくせくとして働く姿を想像しながら気楽に読んでも面白い一方、心理学者として読んでいても学ばせてもらえるところがたくさんある。特に動物を対象にした心理学者として見たとき思うのは、対象動物の生き様の切り取り方の工夫には、目を見張るものがある。

 

大崎さんの研究は野外で採集してきたクチキゴキブリを研究室内で飼育しながら実験・観察をしたものが多い。その点は、野生動物を扱っている動物心理学者なら、さほど変わらない。例えば、私も大学院生のときはカラスを研究していて、やつらは元々野生にいた個体だ。しかし、私や (典型的な) 動物心理学者と異なるのは、元々あった自然な行動を再現することへの注意深さだろう。私なんかはカラスとハトの「ついばみ」の研究をしていたので、当然提示した食物をついばんでくれなければさすがに実験にならんのだが、別にそれは難しいことでもなんでもない。餌が出たら、そりゃあ食うからだ*5

 

一方、クチキゴキブリの翅食いや侵入個体排除といった行動を自然な場面において再現するには、元の生息環境から大幅に変化があっては困る。とはいえ、朽木の中に生きる環境をそのまま持ってきたら、今度は行動をつぶさに追いかけることができない。そういうジレンマとの格闘が本書では赤裸々に語られているわけだ。そのあたりの事情は特に5・7章にまとめられている。というわけで、動物心理の人たち、この本は「いや、昆虫の研究なんでしょ・・・」と言わず、読んで損はないぞ!

 

関連しつつちょっと脇道に逸れる話をしよう。私のホームグラウンドの学会は動物心理学会なのだが、実質的に「脊椎動物」心理学会となっていることが博士院生の頃からちょっと気になっていた。この懸念の発端は、比較生理生化学会に出入りしていたこととも無関係ではない。そういうわけで草の根的な活動として昔、学会シンポジウムでカイコガの研究をしている志垣さんに講演を頼んだりもしたことがある。志垣さんの研究はカイコガの匂いのセンシングと匂い源へのナビゲーションなので、私はこれが十分に心理学的な問題でもあると思っているし、実際、かなり心理学者だらけの会場でも好評だった気がする。こういうことはもっとやっていきたい (と、勝手に決意表明をしておく)。

 

最後に「ひとりの大学院生から見た、大学院の実情記録」という側面。ある程度以上の立場になった研究者の随想・回想録的な本は世の中にはないわけではない*6。本書の場合、大学院生から見た景色がまだ褪せてない若い研究者が書いたものであるがゆえ、最近の大学院事情*7がよくわかる。それに加えて、その時々の心情が単なる「古き良き思ひ出」になる前に記されているのも、本書の特色だろう。学部生や修士院生で博士進学を考えているなら、先輩院生の経験談を聞く気持ちで読んでも糧になることがたくさん見つけられるのではないかと思う*8

 

というわけで、『ゴキブリ・マイウェイ』を読み、思ったことをつらつらと述べた。ゴキブリの昆虫生態学としても、友人 (ってことでいいですよね!?) の書いたエッセイとしても、単純に読んでいて楽しめたし、示唆的なことがたくさんあった。個人的には、今年生態学会いけたことは自分の考えを見直すきっかけにもなって、財産になっている。横浜からの帰り道から数日にかけて、大崎さんの著書を読むことは、その延長戦といっても過言ではなかった。献本、ありがとね!

 

 

*1:正確に言うと、出身研究室の院生がいたので、2人かな

*2:便利なんでこういうふうについ使っちゃうんだけど、モデル・非モデルって呼び方は、本来よい言葉だとは思わない。

*3:なお、どうしてこんな行動が進化したのかはまだ決着がついてないそうで、大崎さんも、まだオープンにできない仮説を検証中とのことだ。

*4:これには日本語訳も出ている。なお、もう一冊の教科書の方は、奇しくも大崎さんの指導教員の粕谷先生が書いたものだ

*5:とはいえこの程度のことでも、実験環境に馴致して不自然なく摂食してくれるとか、行動をカメラで記録する上で適切な撮影環境を作りつつ行動を阻害しないようにするとか、考慮すべきことがないわけでもない。

*6:俺が好きなのだと、筑波大学の動物心理の伝統を築いた岡野恒也先生のものとか。渡辺茂先生の本もそういう側面がないわけではない。

*7:とはいえ、これもよかれ悪かれだと私は思っているのだが、博士院生は10人いたら10人の事情があるのは、留意しておこう。

*8:ただ、1つ、心理学者として一応言っておかなきゃいけないことなんだけど、DSM-5に載っている精神疾患通俗的な意味で書くことには、ちょっと気を受けた方がいいんじゃないかな、とは思う。きっと大崎さんはこの先また本を書いたり、より多くの人に言葉を届ける人になるだろうから、これは次会ったときにでもまた伝えますね。