俺が徹底的行動主義じゃない理由を・・・え?興味ない?

Skinnerは「私が認知心理学者じゃない理由」って直球の論文を書いてるんだが、タイトルはそのオマージュなわけだ。普段からなんとなく思っていることを、ちょっと書き出してみようと思った。

 

俺は行動分析学会の会員ではある*1ものの、行動分析家ではない。応用・臨床的な活動をしたことはないのはもちろんだが、実験科学者としても行動分析学の研究で公刊済みのものは1つしかない*2。だけど、そのへんにいる心理学者よりは行動主義については詳しい自信がある。それは大学院を通じて坂上先生 (ガミさん) のゼミに出席していて、毎週のごとくSkinnerや関連する論文を全訳し続けてきたから、その杵柄なわけだ。人文系の人たちなら普通のことだろうけど、ガミさんのゼミでは読解が1段落で止まって、それで1コマが終わることもあった。心理学では今時珍しいんじゃないかと思う。なんというか、古き良き大学院って感じだよね。ありがちなことだとは思うが、出席している当時の俺は、それほどありがたがることもなく、深く自分の考え方に影響しているとも思っていなかった。こういうのは、後にじわじわと影響が出てくるものだ。

 

ひとたび大学院を出ると人に「行動主義とはなんなんじゃ」ということを人様に向かって説明したり、あるいは、どこで吹き込まれたのかもわからない誤解に対し「いや、(徹底的) 行動主義って、そういうものじゃないんですが・・・」と擁護したりすることが増えてきた。去年の暮れには、某所のジャーナルクラブで取り上げられた論文が丹野 (2019) の「徹底的行動主義について」 だったということもあり、お誘いを受け、解説めいたこともしてしまった。学位取得後に俺のことを知った人からすると意外かもしれないが、ガミさんが生きていれば「君がまた、どうして」笑ってしまうことだろう。

 

勘違いされることも多いんだが、俺は人に「徹底的行動主義者か?」と聞かれたら、はっきりと「NO」と答える側の人間だ*3。これは謙遜でもないし、逆に「行動主義者」はなんか知らんが厭われがちだから、意固地になって違うと言っているのでもない。むしろ行動分析学の研究者からすると「いや、そりゃそうでしょう。お前は徹底的行動主義じゃないよね。何を当たり前のことを・・・」って思うところだろう。当の徹底的行動主義がどういうもので、何を述べているのかは丹野さんの論文でも読んで理解してもらうとして、俺が徹底的行動主義者じゃない理由を述べてみよう。考えてみたら色々思い当たる節はあるんだが、その理由は差し当たり4つに分類できそうだ。

 

① 動物の行動の多様性を生物学的制約として狭い領域に置かれたらちょっと困る

② 意識を言語行動の方に持っていかれると困る

③ 必ずしも「徹底的」行動主義である必要がない場面が多い

④ 随伴性という分析単位が、俺の知りたいことに対して粗視的な場合が多い

 

これは後ろに行くほど、俺にとって重要な話になっていて、かつ、自分の中でも解決できていない問題になってくる。それほど重要ではない話から始めよう。重要じゃない話の方は、重要じゃない代わりに簡単だからだ。

 

 

① 動物の行動の多様性を生物学的制約として狭い領域に置かれたらちょっと困る

これは比較心理学・比較認知科学を専門にしていれば、似たり寄ったりな印象を持っている人も多いと思う。ようは、自分の関心、それも自分にとってはそれが主題としての地位を持つに足る重要な問題だと信じているものが第一義的な位置にないから、それはちょっとな〜ってだけの話。

 

「だけの話」とは言っても、研究の主題選択に関わっているという点では、バカできたことでもない。大前提として、比較心理学だって、別に個々別々の動物が異なる行動していることが嬉しくて、その動物のことだけを知りたくて研究してるわけではない*4。多様な動物行動を生み出す一般的な法則を知りたい。この気持ちは別どちらを専門にしていても変わらないだろう。比較心理学者と行動分析学者だと、そこへの態度がちょっと違う。比較心理学者は典型的には「多様性を生み出す」法則性に関心があるが、行動分析学者だと「種間で共通している原理」に関心がある人が多い。この辺りはどっちがえらいって話でもない。どっちも人類が知るべき知識だし、その知識の極北では、こういう区別自体が意味をなさなくなるかもしれない。この話題は既に何周もされているから、俺が改めて付け加えることもほとんどない。こんなところでいいだろう。

 

1つだけ言い添えるとと、この第一の理由は「徹底的行動主義」(哲学) というより「行動分析学」 (実践) 側の話だし、行動分析学の中にだって、例えばTimberlakeのように動物の固有の行動パターンの構造を見たほうが、結局は予測と制御にも寄与するのだと、行動学的アプローチの重要性を説いた人だっている。ありていに言えば、いろんな人がいるんだ。Timberlakeの話は、日本語で総説にしたものが出版されるからみんな見てくれよな。

 

 

② 意識を言語行動の方に持っていかれると困る

これも前提なんだが、徹底的行動主義は意識をないものとして勝手に消去したり、科学から追い出そうと排除したりする思想ではない。「え?そうなの?それは、初めて知った・・・」と思った人は、こんなブログ読んでる場合じゃなくて、丹野論文や、関心があればSkinner本人の文章を読んだ方がよっぽどタメになるぞ。

 

徹底的行動主義における意識の位置付けは、いわゆる「私的事象」と呼ばれるところにある。私的事象は、「俺」や「あなた」自身が観察していて、かつ、他の人は観察していない事象である。ようは観察者1人の事象のことだ。例えば、内言がそうだろう。声に出さない痛みもそうかもしれない。感情も情動表出がなければ私的事象なことが多い。クオリアって呼ばれる感覚質は、Skinnerの時代にはなかった言葉だが、定義的には私的事象ってことでいいだろう*5。その私的事象というのは、私たち自身が弁別できる。どう弁別するか?言語的に弁別し、その言語行動は社会的随伴性によって形成・維持されてきたものだ*6。この考え自体に対して、行動主義内部でも異論はあるが*7。意識の進化理論群はお互い批判しあったり、部分的に同意しあったりしつつも、共通するのは生物進化における意識の連続性に正面から立ち向かおうとしている点だ。つまり、これらの説はいずれにも、自然における意識の位置について各々の見解が盛り込まれているわけだ。それがうまくいくのか、最終的に全部見込みがありませんでした、となるのかはわからない*8が、少なくとも検証可能な仮説は湧いて出てくる。

 

一方、徹底的行動主義における意識の位置づける場所は自然ではなく、社会の方になってしまう*9。私的事象の弁別に使われる言葉が、社会的随伴性の産物だから、探求すべきはその言語随伴性の成立や維持、変遷の過程になるわけだ。自然科学に立つ者として、そう突っぱねるより先に、まだやるべきことがあるんじゃないかと思ってしまう。

 

③ 必ずしも「徹底的」行動主義である必要がない場面が多い

徹底的行動主義は、いまや行動主義の中では唯一人口を保っている立場であるから、21世紀にはそれしか存在しないように見えてしまう*10。しかし実際には、Skinnerを批判的に継承して、必要な箇所は改変していく動きもある。個人的に、俺はそういう人たちをpost-Skinner行動主義と呼んでいる。

 

post-Skinner行動主義の代表格は、応用の世界で有名なSteven Hayesの機能的文脈主義だ。機能的文脈主義は、日本でもいくらか紹介されている*11。俺がよく知っているのは、William Baumの巨視的行動主義、Howard Rachinの目的論的行動主義、John Staddonの理論的行動主義、William TimberlakeとWilliam Donahoeが独立に提案した生物学的行動主義だ*12。俺が書いた実験的行動分析のpost-Skinner行動主義をまとめた日本語総説が、今年公開される予定だから、どんなこと言ってる連中なのか、興味があればそれを読んでほしい。あと、一部は過去にも書いていた。

 

heathrossie-blog.hatenablog.com

 

post-Skinner行動主義は、Skinnerほど広範な体系にはなっていない。ここは認めなきゃいけない。しかし、徹底的行動主義では物足りない部分を、なかなかいい感じに掬い取ってくれている。例えばRachlinなら、Skinnerが私的事象を概念的分析に頼る羽目になったのは考えている行動の時間幅が狭すぎるからだと批判した。Rachlinに言わせれば認知心理学者もSkinnerも、考えている時間スケールが短すぎる。心的概念で分析されるような事象というのは、もっと長い時間で考えられるような時間的に延長された行動 (temporary extended behavior) として考えなきゃダメなんだ、と言ったりする。ちょっとざっくりした説明でピンとこないかもしれないが、俺は結構的を射ているな、と思う節がある。そういうわけで、俺は「徹底的」行動主義にこだわらなくとも、考えたい問題に合わせて適切な思考の枠組みを与えてくれるものは、他にもあるように思っている。

 

とはいえ、post-Skinner行動主義同士は結構対立点があって、和解不可能に見える批判の応酬もある。その辺りは「なんでもあり」とはならなそうだ。とはいえ、Skinnerの徹底的行動主義も、post-Skinner行動主義も、思索の中で生まれたわけではない。実験的研究をする中で、どういうふうに行動の科学研究を進めていくべきなのかという描像を打ち出していった。なので、これらをまとめた次世代の思想が出てくるのかどうか、自分の中でどう調停するのかどうか、これ以上は概念的分析ではなく、実験研究の中で考えていきたいと思っている。

 

④ 随伴性という分析単位が、俺の知りたいことに対して粗視的な場合が多い

最後は、実は長年思っていたことでありつつ、いまだに言語化に苦しむところになる。俺は行動に詳しい人のように振る舞っているが、「お前が最も詳しい行動は何か」と言われたら、「鳥のついばみ」だろう。俺が元々やっていた研究というのは、ハトやカラスが餌をつっつく行動だったからだ。この研究はようは、運動制御であり、行動分析学においては「トポグラフィー」と呼ばれるものだ。

 

行動分析学では、行動は随伴性で定義される*13。つまりは、行動は運動じゃなくて、前後の事象間の機能的関係で定義される。毎回いろんな軌道を描く運動も、同じ機能を果たせば同じ行動として1つの集合をなしている。それを行動と呼ぼう、ということだ。この集合のことは、機能クラスって呼ぶことが多い。こういう定義の仕方をすると、実は大変便利だ。物理的には毎回異なるトポグラフィーを持っている運動のバリエーションに悩まされる必要がなくなるからだ。それに、一見異なる行動も、同じ機能を果たしていれば同一の行動と見なせば、そういう行動はえてして同じ制御要因によって起きていることもある多い。

 

俺はこれが大変便利な「粗視化」であることは、疑っていない。随伴性は、自分でもよく使う概念だ。しかし、環境と個体が切り結ぶ関係を記述する上で、この概念だけでは不十分だろうとも感じている。俺は多分、日本で一番ハトとカラスのついばみ運動を見た人間だと思う。なんでこんなことをしたのだろう?一番最初の関心は、カレドニアガラスが道具を使って採餌をすることだった。彼らはクチバシ使って木の枝や硬い葉を整形し、朽木に潜む昆虫を釣り上げるよう繊細に操作する。多くの比較認知科学者がその行動にまつわる「高次認知」に関心を持つ一方、俺が問うたのは「腕の先に目があるような身体デザインで、こういう行動をするには、どういう問題が起きうるだろう?」ということだった*14。結局、事情があってカレドニアガラスはクチバシの形態計測研究で終わって、そこからはハシブトガラスとハトを使った、より基本的な動きの研究として「ついばみ」を選んだわけだ。しかし、問題意識の核が変わったわけではなかった。

 

Edward Reedという生態心理学者は、動物が「周囲の状況が要求する機能の変化への同調する」ことを機能特定性(functional specificity) という概念で言い表した*15。事象間の相関性のレベルではそれは随伴性という言葉で表現できるかもしれない。でも、Reedが考えているのは、時間を区切った事象として単位化されるようなものでもなく、刻一刻と変化する動物の動きと環境との関係の中で達成される、その達成のされ方 (つまりは特定性) であるように思う。Reedにとっての行動とは、そういう特定的な機能を生み出す流れで、その流れはエコロジカル情報のピックアップを介して達成される。俺がついばみの運動をひたすら計測して、その動きの時間発展を記述し、実験的介入の効果を比較し、動物がどういう知覚的流れの中で生きているのかを捉えようとしたのは、そのような意味での行動だったような気がする。

 

こう考えたら、俺が徹底的行動主義者でないのも、ほとんど自明なことのような気がする。徹底的行動主義は強力な思考の枠組みで、それを使って考えられるものは、その上に乗っかって思考した方が大抵の場合、破綻のない道を歩いていける。ここでいう粗視化というのが、ネガティブに映ってしまったかもしれないが、実際には逆だ。行動現象は適切に粗視化した方が、秩序だった法則性が見えてくることが多いし、そこから得られた教訓が「行動分析学」と名のついた教科書に登場する一般性の高い知見なわけだ。しかし、その水準では見えてこない動物行動の魅力に取り憑かれてしまった比較心理学者は、随伴性の世界から離れなきゃいけない瞬間がくる。それは、単に微に入り細に入りなせせこましい研究に終わる恐れと隣り合わせでもあるが、より分析の時間スケールに豊かな階層を持つ行動の科学に向けての試論でもある。俺は、後者の可能性に賭けてみたい。

 

 

*1:会員になったのは2023年だがな

*2:これはちょっと情けない話で、誇らしげにいうことでもない。だけど、もう少し増える見込みではある。

*3:いわゆる「認知主義」と呼ばれている立場よりは筋が通ってんな、とは思うが。

*4:そうだよね?

*5:原理的に1人でしかありえないのか?と問いたくなる気持ちは、ここでは抑えてほしい。それは現代科学ではまだ答えられていない問いだ。

*6:クオリア」に関しては、言語的に弁別した瞬間に失われる「質」そのものを指していて、ここでの例としては微妙だ。適当な私的事象に思いを馳せながら読んでほしい。

*7:例えばBaum (2012)))、ひとまずSkinnerの徹底的行動主義では、そう考えるんだな。

 

ここで、「意識の位置づけ、それでいいの?」という気持ちが俺にはある。ここ最近になって、行動分析学の外では意識の進化理論がたくさん登場している((代表的なのがGinsburg and Jablonka (2019)、Feinberg and Mallatt (2016)、他にもVeit (2023)、Le Doux (2020)、Godfrey-SmithGodfrey-Smith (2020)と、いろんな立場がある。そして、正確には意識そのものの理論ではないが、Mitchell (2023) が俺のお気に入りだ。進化に限らなければ、統合情報理論、グローバル・ニューロナル・ワークスペース、高次理論 (HOT)とかが有名だよな。

*8:もちろん俺は、まだ諦めるほど絶望的な状況じゃないだろうと思っている。

*9:人間社会だって自然の一部だ、みたいなことはとりあえず置いておいてほしい。ここで指しているのは言語行動の随伴性を維持する共同体であって、自然科学が通常相手どるそれ以外の個体の随伴性や集団が長い時間をかけてどう変化していくかという話ではない、と言いたいだけだから。

*10:厳密にいえば、Linda Hayesは "Psychological Records" という雑誌は相互行動主義 (interbehaviorism) の思想で運営していたし、後任に譲ってからもその方針は変わっていないと言っていた。とはいえ、相互行動主義者は世界的に見ても、100人には満たないだろう。言ってることは面白いんだけどね。もっと増えたらいいな、相互行動主義者。

*11:武藤 (2021)が最もまとまっている。

*12:あと、Foxallの意図的行動主義というのもあるが、これははっきり言って行動主義とは言えないだろう。

*13:詳しく知りたい人は、これを読んでくれ。

*14:俺の畏友は10年近く前のことを覚えていてくれて「手の先にカメラがあって、そのカメラを通じて物を取る状況を想像してほしい」と、当時の俺は言ったらしい。言った気がする。

*15:俺にとってReedのこの本は、これまで読んだ中でもっともインパクトを残している本だ。まだ消化しきれていないし、今後何度も読み返すことになるだろう。