2020年のまとめに代えて、トリのクチバシとか言ってたやつが意識の研究をしたくなった経緯

俺は博士のときはカラスとハトで運動学習の種間比較をやっていて、Bochumでポスドクをしていたときはハトの知覚研究だったり、学習の種間比較だったりと、比較認知科学的な研究をしていた。そういう人間が来年から意識の神経科学に携わると息巻いているのだが、どういう経緯でそうなったのか、経緯を記録しておく。と言っても、いざ書いてみると、俺の内面的な話ばかりで、一般的に有用そうなことは特に何もなかった。だがまあ、せっかく書いたし公開しておくことにする。

 

いきなりネガティブなことを書くと、2019年の4月にドイツに降り立ったときは、いまいち研究者としてやっていく自信がなかった時期だった。と言っても、別に特別に自信喪失するような出来事があったわけではない。博士3年間はそれなりに頑張った方であったと思うし、実際まあ平均よりは多少なりともうまくやっていただろう。俺は人前で喋るときは自信ありげに喋るし、誰も俺がそんなネガティブムードだったとは思うまい (と言いつつバレていたら、恥ずかしい)。

 

じゃあ何に困っていたかというと、端的に言えば「うーん、このままでいいのかなぁ」と言った、よくある類のものだ。修士で比較認知科学 (元ラボではそういう言い方はしないんだが、この際名前なんてどうでもいいだろう) を始めたときは、カレドニアガラスの道具使用がおもしろおかしくて、とにかく「なぜそんな巧みな運動ができるのか?」を知りたくて研究を始めたわけだ。で、その核となった疑問と、当座的な「やれること」を勘案しながら研究を進めて、ひとまず学位取得までは突っ走れたわけである。これもこれで、共同研究者が大学辞職して計画が全部白紙になったりと、事件はあったにはあったんだが、結果的には楽しめながら進められたのでヨシッ・・・ではあると思う。

 

2019年当時も今も、鳥も含めて動物の運動だったり道具使用だったりには興味はあるわけだが、いつの間にか「次できる仕事」をこなして、手に負える問題を解決するだけになっていくんじゃないかという漠然とした不安があった。加えて、この先生き残れるかはわからんが、なんとか生存したととして、自分の中のサイエンスのビッグピクチャが40年も続けるのに値するのかどうにも疑問だった。そういうわけで、自分自身に対して不甲斐ない時期だった。いやまあ、実際にはできることを進めていくしかないし、俺も現実的にはそうしてる。さらには、そういうのは手を動かしながらも変わっていくので頭で悩んでいても仕方ないってのもその通りなんだが、同じような悩みを抱えている人は多いんじゃないかと思う。

 

そういうわけで、海外学振の2年間の裏テーマは、その不安と向き合うことにあった。具体的には、博士3年のときに書いたこの論文から概念的に成長しつつ、それでいて単なる延長線にならないようなワクワクする枠組みに至りたい、なんてこと考えていた。受け入れ研究者のOnurにも「いま俺悩んでるんだよね」みたいなことを大学のレストランでハンバーガーを食いながら話したりもした。

 

そういうわけで、ドイツにいる間は、今まであまり考えたことのないことも触れることができた。特によい影響をもたらしたことはなんだろうと考えてみると、2つある。

 

(1) 好き嫌いせずに研究に触れてみたこと

悩んでいても、科学者なのでとりあえず手を動かすのがとても大事だ。D3までの自分は結構好き嫌いがはっきりしてるタイプの研究者だったと思う。そういうわけで「こういうのは自分の仕事ではない!」とわりとはっきり興味を突き放していた部分もある。ただ、2019年の4月からは、自分は慶應の人間ではなくて、BochumのBiopsyラボの人間なんだから、そういう風に振舞って、考えようというのはあった。「立場が人を作る」というやつだ。そういうわけで、いくつか共同研究にも携わった。いわば「比較認知科学らしい比較認知科学の研究」を主導したり、手伝ったりもした。

 

ここで行き着いたのは、Lolyd Morgan以来繰り返されてきた疑問で、「そもそもどうやって何が比較可能なのか?」という点だった。Bochumではひとまず、できる技術と知識でやってみたものの、近年の何でもかんでも "inteligence" として動物の行動を漂白してしまう比較認知とは別の切り口で攻めたいと、改めて考えるようになった。しかし、この辺りは、また今度。

 

脱線するが、比較認知のアプローチとして、Ken Chengは結構違う方向性を示していて、extended、embodied、distributedな認知として、動物の典型的な環境全体からsituatedされて実現される機能をきちんと捉えようぜ、と提案している。

 

さらに、Onurラボでは、PIのOnur以外に、博士院生にはポスドクがアドバイザーとしてつくというルールがある。俺も二人の博士院生を見ることになった。この二人は比較認知科学的な実験をしつつ、計算論的モデリングとか、高次元データの縮約とか、そういうのにも興味があって俺が見ることになったというわけだ。と言っても、俺も別にそれが専門では全くないし、勉強中の身だったので、一緒に格闘していくことになった。あとは、単に技術的にトラッキングが必要で、それができるのが俺だったからというのもある。具体的な業績としてはおそらく来年-再来年に形になると思うが、これもいい経験だった。業績も大事なんだが、計算論的エソロジーな方法で研究していると、「そもそも行動とは何か?」という疑問に帰ってくる。博士院生ともそこでいつも一緒に頭を抱えているが、この効用は大きい気がする。おそらく、Skinner以降、いわゆるpost-Skinnerの行動主義の有力者であるBaumとStaddonも同じ問題に直面して、そこでSkinnerと「行動の単位」という分析の根本で袂を分かつたんだろう (この辺りの話も、またしたい)。自分がBaumとStaddonクラスの研究者であるとは思わないが、自明なものが自明じゃなくなってしまったというのは、大きな収穫である。

 

ところで、2021年からは北海道大学CHAINの人間なので、もちろんそういう風に振舞って、そういう風にものを考えられたらいいな、と思う。今は?コロナ隔離期間で無職の人間なので、あと一週間は無職らしく振る舞い、無職らしくものを考えるのである。

 

 

(2) 意識について考え始めたこと

先ほどのハンバーガーを食べながら話しているときに、Onurから「お前、意識とか興味ない?」と聞かれた。心理学者で意識を明示的に扱うかどうかは別にして「俺は意識には興味がない!」と答える人はあまりいないだろう。あのSkinnerだって、私的事象 (private  event) は重要な研究対象だって言っている。俺もそういう当たり障りのない回答をした。で、「じゃあ、意識の研究について考えよう」と。そのときはいまいちなんでそうなるのかがわからなかった。

 

しかし面白いことに、布石というのは転がっているもので、そのとき思い出したのは博士の試験と博士論文計画書の公聴会で投げられた質問だった。というのは、慶應伊東裕司先生に「君、自分の研究で意識について考えたことある?」と聞かれたのだった。M2のときはいまいちいい回答ができなかった。「え、うーん、あまり考えたことないですねえ。でも、感覚運動の研究なので関係はする・・・のかなぁ?」このとき、指導教員はなんとも言えない苦笑いをしていた。

 

その3年後、同じ質問を受けることになった。「ねえねえ、前も聞いたんだけど、覚えているかな。君はその自分の研究から意識について考えたことある?」さすがにD2の後半にさしかかっていたので、みっともなくワタワタすることはなかったが、「ぼくの研究は感覚と運動のループの時間スケールや、そこで制御可能なものがなんなのか、その種差が実際の機能に及ぼす影響はなんなのかという研究なので、ひいてはそれは意識、心のあり方そのものなんじゃないかと思います」みたいなことを言った気がする。まあ、答えてるのか答えられてないのかよーわからん感じの返しなんだが、うまく返せなかった質問というのは心に残るもので、「うわぁ、ゆーじさんの手のひらのうえで飛んでる気分だぁ」と思う。しかし、自分の研究を「カラスとハトの制御様式が異なる」という点以外から眺め直す契機にはなった。

 

で、Bochumでも意識研究を立ち上げようとしたんだが、結果としてはこれは全然ダメだった。というのは、2020年に入っていざはじめてみて、訓練の途中でコロナが直撃しておじゃんになった上に、建物の工事とかなんとかも起きてこりゃもう間に合わん、と。そういうわけで俺がやるのは諦めてしまった。他にも頓挫したものがあって、業績的には大きく毀損したのだが、頭にはいい栄養になった。リカバリーとしてやっている研究で、結果的に自分の中で概念的に重要な進歩を産んでくれたものもある (これも世に出たときあたりで、そのうち・・・)。

 

他にも、考えるきっかけになった質問というのはある。それが何かと言うと、全く関係ない場所で、全く別の二つの研究について発表した折に、独立に二人の先生から「君は最適性について考えなさい」と言われたことだった。繰り返しになるが、これもまた当時はうまく返せなかったもので、そういう指摘は後にまで覚えているものだ。良い回答は今もないのだがとにかく、ある機能を実現している動物の振る舞いが、どういう意味で最適か (あるいはそうではないか) はきちんと考えたいなぁという「気持ち」だけはあった。一応、今年出したプレプリントではその背景もあり、推定されたモデルパラメータがシミュレーションから得られた最適な値からどれくらい離れているかもを出してみたのだが、この点はもっと頑張りたいこととして残っていた。実際、博論諮問会では「もっとそういう検証は数学的にできるんじゃないか?」と指摘を受け、再び頭を抱えたものだった。まぁ一歩ずつ進めていこうと思う。

 

余談なんだが、以上のような問題意識を持ちつつD3の頃、法政大学の伊藤賢太郎先生のところに見学行って相談した際に「君はこれを読みなさい」と言ってくれたのがストロガッツの『非線形ダイナミクスとカオス』だった。途中まで読んで積ん読状態なんだが・・・。ただ、その年に出版されたAsif Ghazanferラボの身体計算論文は、いつかこういう発想の研究がしたいものだ・・・と今でも憧れがある。

 

以上のようなことを考え、だいたいキーワードが出揃ったのを、2019年の終わり頃に感じ始めていた。意識、最適性、運動、行動、ダイナミクス・・・まず意識、そこで、次の所属では意識に携わる研究がしたい。それをやる上で、よりprincipledな方法でやりたい、と考えた。そこで、何も知らない状態から意識の理論について調べ始めたわけだ。とりあえず当時の俺に見つけられたが、Tononiの統合情報理論 (IIT)、DehaeneのGlobal Neuronal Workspace理論 (GNW)、Fristonの自由エネルギー原理 (FEP) であった。で、どういう立脚点で、少なくとも次の数年間を過ごそうかと考え始めた。

 

IITは、これまでの自分の仕事とは大きな隔たりがあるように感じた。俺はそれまで鳥の感覚運動制御について研究してきた。あるいはドイツでは知覚だったり学習だったりの研究に携わっていた。なので、動物にとって、身体を動かし、環境と相互作用することが第一義的で、意識もその全体的な機能の中の一部である・・・というよりそうであってほしかった。つまりまあ、これは論理的に「そうあるべきだ!」というより、単にそうであってほしいという願望があって、それをうまく定式化している理論がほしかった。GNWにも同様の感想を持った。しかし、これもただの感想レベルの話である。実際、まだ表面をほんのひとかすりした程度にしかわかっていない。とはいえ、結果として自分はFEPから始めてみたいと思うに至った。

 

ところで、これもさらに余談なんだが、俺はいろんな人の手のひらの上で踊っているらしく、D1だったか、D2だったか、それくらいのときに大学院の先輩から「お前、そういうの好きそうだし、次は自由エネルギー原理とかやれよ!」と言われたのを思い出した。当時は「ええ、よくわかんないですし、嫌ですよお」みたいな返しをしたのを覚えている。最近、その先輩に「結局そこに行き着きそうです」と報告したら、ふっと笑ってくれたのだった。

 

FEPはもともと意識の理論ではなくて、皮質の計算原理として提案されているが、それ以降知覚と学習全般と、おおよそ認識に関わるあらゆる作用が満たすべき条件として議論されている。おお、まさにこういう発想から、動物の意識を特徴付けて、なぜ行動がかくあるのかを調べたいんだ、と興奮したのが2019年の12月くらいだった。日本で自由エネルギー原理について積極的に発信しているのが吉田正俊さんで、すぐに解説論文にも行き当たった。

 

場所は北海道大学のCHAIN・・・2018年に始まったばかりの研究機関だったが、なんとなく親近感があった。というのも、竹澤正哲先生と松島俊哉先生がCHAIN関連の仕事でBochumに2019年の夏に訪問されていて、Onurラボでもトークをしていたからだ (なんと、Ruhr-University BochumはCHAINの連携機関らしい)。松島さんは、俺の博士の指導教員の伊澤栄一先生の指導教員だ。直接なにかを具体的に教わったわけではないんだが、研究者としての姿勢とか態度とか、そういうソフトな部分をずっと教えてもらっている気がする、そんな人だ。なので、勝手に縁を感じていた。

 

という経緯で、吉田さんにコンタクトを取り、あれよあれよという間に学振PDの申請に至り、来年からCHAINの人間になることになったわけだ。2020年のまとめと言いつつ、だいたい2019年の話で終わってしまった。だが、書くのにも疲れてきたし、この辺にしておく。